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フェル・アルム刻記

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二.

「ハーン……」
 最初に小さく声を出したのはライカだった。
「うん」
 ハーンは彼女の言わんとすることを理解したのか、前を向いたまま、小声で返した。
 ルードは彼らの雰囲気から状況を察した。
(疾風が来たのか……。でも、やっぱりライカは俺よりハーンを頼ってるんだよなぁ……)
 緊迫した状況の中ではあるが、ルードは一瞬、ハーンに嫉妬するのだった。
 ライカがルードの肩をたたき、彼は我に返った。その途端、嫉妬めいた感情は消え失せ、代わって恐ろしいまでの緊迫感に支配されてしまう。
「異様な風の流れが伝わってくるのよ……」
「そう、すさまじい殺気を感じるんだ」
「疾風……なのか?」
 ルードがその言葉を口にした時、心臓が飛び出るような恐怖を感じた。“常識”から超越した現実、本来は遠くにあるはずの死という概念を肌に感じたからだ。
「そうだよ。奴だ」
 ハーンは前を見つめたまま語りかける。
「殺気はどんどん近づいて来ている。かなりの勢いでね。……今さら馬を走らせても、追いつかれるのは……こりゃあ時間の問題だろうねぇ……」
 ハーンはそう言いつつ、左手で馬の鞍を探る。そして彼の手は、探しているものを握りしめる。あの圧倒的な“力”を持つ銀色の剣だ。
 ルードは戦いだけは避けたかったが、そうせざるを得ない状況になっているのだ。ハーンはルードのほうを振り向いた。
「なぁに、君達が戦うことなんてないさ。僕が……ひとりでかたをつけるよ! ……奴と戦う。こういうことを言っちゃうのはいけないんだろうけど、どこかで期待していたんだよ。かの“疾風”と剣を交えるってことに、さ」
 この切迫した場でありながら、ハーンにはどこか余裕のようなものがあるように感じられた。彼も先ほどまで焦燥に駆られていたのだが、一度腹をくくってしまうと度胸が据わるのだろう。幾多の修羅場をくぐり抜け、なおまた戦慄を求める戦士としての彼がそうさせているのか。
 ハーンが馬を止めた。ルード達はハーンの一挙一動にすらどきりとした。ハーンは彼らのほうへ馬を寄せ、いつもの日溜まりのような声で言うのだった。
「さあ、君達は何もしなくていい。僕に任せてくれればいい。そう、見ているだけで。――!」
「あっ!」
 ハーンとライカが、ほとんど同じく声をあげた。
 とっさにライカは低く小さな声で言葉を紡ぐ。それが終わるとともに、突然強い突風が渦を巻き、彼らの周囲を包んだ。ほぼ時を同じくして、ルード達を狙ってきた数本の矢が風によって力を失い、何ラクか手前にぽとり、と落ちたのだった。

 風がやむ。
 ハーンは馬の向きを変え、前方を――矢の飛んできた方向を見据える。ルードもそれにならい、恐る恐るではあるが向きをただし、ハーンの後ろに馬をつけた。ルードは心臓が張り裂けそうではあったが、きっと前を見据えた。そして彼は見た。ものすごい勢いで自分達に近づきつつある黒い人影を。
 ルードはあらためて自分の身体を巡る血潮を強く感じ、手綱を握りしめた。ライカも、ぎゅっと彼にしがみついてくる。
「ありがとうライカ。今、風を起こしてくれたよね?」
 ハーンが言った。
「そう。私にはこれくらいしか出来ないから」
「あとは僕に任せてちょうだいな」
「でも、あんな遠くから矢をとばせるような腕だぜ? ハーンも気を付けてよ」
 今までならばライカの言葉を受けて『じゃあ俺には何が出来る?』と悩むルードだったが、そんな余裕は持てなかった。

 やがて男の顔がはっきりと見て取れるようになった。薄汚れたマントに身を包んだ、中背の男が馬を駆っている。あからさまに発散させているその殺気にルードは押され、男を凝視したまま動きを奪われた。
 ハーンはただ静かに男を見ていたが、「下がって」と、ルード達に言い残し、男のほうへと近づいていった。
[……どうしましたかぁ?]
 男はハーンのそばに落ちた矢を見つめている。
[やはり、お前か! ベケットの酒場に居合わせていただろう。あの時から妙な感じを抱いていたのだ、俺は]
 威嚇のこもった、低い声で男は言った。
[えーっと、何でしたっけ?]
 ハーンはとぼけてみせたが、耳を傾けることなく男は言う。
[お前は普通の人間と何か違う、とその時ですら思っていたがな、確証した。今、俺の矢が不自然にそれたな?!]
 そう言って男は馬から下りた。
[起こるはずのない風が突然起きた。人為的な、奇っ怪な風がな。それがどういうことか分かるか?]
 ハーンは動じない。うすら笑みを浮かべながら馬を下りる。
 ルード達も馬を下り、ハーンから遠ざかった。男はルード達を一瞥すると、ハーンを睨みつけた。
[そのようなことが出来るのは、俺の知識の上では限られた人間だけなのだ!]
 殺気がハーンに叩きつけられるが、ハーンは平然としている。へえ、などと、とぼけた感嘆をする始末だ。
 男は冷たい声で続けた。
[貴様……ニーヴルか? 奇怪な技を使う……。だとしたら、神隠しなどという事件も納得出来る]
[やれやれ、勘違いしてませんか? 僕はただ旅をして――]
[答えろ! 貴様がニーヴルの残党か、否か!]
 有無を言わせない威圧的な口調で男が言った。ぴりぴりとした緊張感が周囲を覆う。
 ハーンはあごに手を置き、考えるふうをみせていたが――おもむろに口を開いた。
[……もし僕が、そうですよ、なぁんて言ったら?]
[お前を殺す! 確実にな!]

 言い終わらないうちに男は瞬間的に間合いを詰め、隠し持っていた剣をハーンに突き立てた!
 ハーンも、即座に馬から剣をとり、応戦する。
 がいん……という鈍い音。
 必殺の一撃を失敗した疾風は、間合いを取り剣を構え直す。そしてまばたきする間もなく、再度ハーンに攻撃をしかけた。
 ハーンは鞘を抜き剣身をさらす。きらりと鈍く銀が光り、ハーンは疾風に立ち向かう。そのまま、神業的な速さで剣を振り下ろした。
 刺客は攻撃を諦め、さらに間合いを取る。そこにハーンの攻撃が炸裂した! まばゆい閃光がハーンの身体を覆い、次には白い弾が放たれ、疾風に命中した。
[うぐはっ……]
 男は声にならない悲鳴を上げつつも、懐に忍ばせていた短刀を投げつける。ハーンは避けきれず、胴をかする。ハーンは、白い服に血がにじんでいくのを気にかける様子もなく、二撃目の光弾を刺客に投げつけた。
[ぐわぁっ!!]
 最初のものよりさらに大きな光球が疾風を直撃し、数ラクも吹き飛ばした。
[さすがは疾風。……でもさ、僕もこんなとこで君なんかにやられちゃうわけにはいかないんでねぇ。だから手加減はまったくしないよ!]
 傷を受けた胴をさすりながらそう言って、ハーンは剣を構え走り寄る。
[ニーブルめ! 反逆者があ! 殺してやる!!]
 疾風は血を吐き捨てると即座に起き上がり、素早く攻撃の態勢に移った。
[はぁぁっ!]
 気迫のこもった疾風の声。今回の競り合いは疾風に分があった。彼はハーンの剣の鋭い一撃を受け止めると、ハーンに体当たりをかました。鈍い音がする。
「うわっっ!」
 衝撃はすさまじく、ハーンは十ラク以上も吹き飛ばされた。ハーンはうつ伏せになったまま動けず、呻き声を漏らす。
作品名:フェル・アルム刻記 作家名:大気杜弥