フェル・アルム刻記
「しかし、結局のところ、デルネアはあなたに残ることを良しとはしなかった。デルネアもまた、悲しい人間であったのだけれども、せめてあなたにはアリューザ・ガルドに戻ってほしかったんですよ。それがデルネアの持っていた、人の心の現れだと思ってください」
ハーンはひざまずいて、〈帳〉と目線をあわせた。
「そして僕もまた、あなたを残すべきではないと思ったんです。あなたは術が発動したその時、隷達と同じように空間の狭間に落ちようとしましたね? 自らを破滅に追い込むことが赦しを得る唯一の方法だと思っていたから」
うつむいたまま〈帳〉は、言葉もなくうなずいた。
「そんなあなたを止めたのは、僕なんですよ」
「罪を滅ぼすためにも、私はここに戻ってきてはならなかったのだ。アリューザ・ガルドに戻る資格など、私にはない……」
ハーンははっきりと、しかし優しく否定した。
「それは違いますね。資格がないと考えているのはあなた自身のみです」
ハーンは〈帳〉に立つよう促す。その表情はいつものハーンでありながら、またディトゥア神族のレオズスとしての威厳も見せていた。
「アリューザ・ガルドに戻ったあなたには、これからつらいことが多いのかもしれません。けれどね、あなたはデルネアとは違う道を生きなければならない。彼は最後まで理想にこだわるあまりに、ついには自らの世界に籠もってしまったけれども――あなたにはフェル・アルムの現実を見据えることが出来る。フェル・アルムの人々とともに未来を築き上げていくというのは、あなたにしか出来ないことです。そしてあなたが自分の為したことを罪と感じているのならば、まさにこれこそが罪を償う手段なのですよ。……ウェインディル」
「その名前……」
臙脂のローブをまとった彼は複雑な表情を浮かべ、ハーンを見た。
「ウェインディル・ハシュオン。あなたの本来の名前です。もうあなたは〈帳〉という呪縛から解き放たれるべきでしょう」
〈帳〉という名を失ったエシアルルは小さく震え、うなずいた。
「分かった……。貴方の言うとおりなのだろうな……。私は今、〈帳〉の名を捨て、かつてのように……ウェインディルと名乗ろう。私はフェル・アルムの未来を見定めていく。だが、人々が真実を――今まで闇に葬られてきたフェル・アルムの真実を知った時、その衝撃に耐えられるのだろうか……」
「え……と、ウェインディルさん」
ルードはやや戸惑いながらも白髪のエシアルルの名を呼んだ。
「フェル・アルムの人達だって弱くなんかない、と思います。スティンに向かう途中で、俺のふるさとに立ち寄ったじゃないですか。あそこはニーヴルの戦いにのまれ、もう人なんか住むようなところじゃあないって思ってた。でも、廃墟となった村に人々が住むようになってたんだ」
ルードは北方へ目を向けた。いくら目を細めても、連なっていた山々の姿を目にすることなど出来ないが。
「……スティンだって無くなってしまった。けれど、羊飼いのみんなは、これからどうしようか、っていうのを多分一生懸命考えてるに違いないです。……うまく言えないけど、そういった強さってのをみんな持ってると思う。俺はそれを信じたいし、あなたにも信じてもらいたい……」
「そうだな……君達の前向きさには、いつも教わることばかりだ。私は……そう、サイファのもとを訪れよう」
ルードの言葉を聞き流すかのように、呆然と目の前の海を見つめていたウェインディルだが、言葉は彼の心に確実に届き、揺り動かしていた。
ルードは聖剣所持者として、運命の中心に存在していた。しかし、過去のアリューザ・ガルドにおいて『英雄』と賞された人物のような才覚や、人を超えた技量を彼は持ち得なかった。たしかにセルアンディルとしての力を身につけ、また、おそらくはライカと同じく二百年の時を生きる長い寿命を持つようになった。だが、その変化によってルード自身の心が、デルネアのように変容していくことはなかった。彼は自身を貫いたのだ。聖剣ガザ・ルイアートが、彼を所持者として選んだのは、もしかしたらルードの純粋な心を知ったゆえなのかもしれない。
そして――デルネアと渡り合い、ウェインディルの心を動かしたのは――結局のところ、一介の羊飼いの少年だった。
* * *
「さあて! いつまでもここにいても埒《らち》があかないんじゃないかなあ?」
ルードの言葉に満足したのか、ハーンは場の雰囲気を明るくしようと努めているようだった。
「……ねえ、ルード。この後、あなたはどうするつもりなの?」
ライカはルードを上目遣いで見ると、つぶやくような声で尋ねた。
「そうだなあ……」
ライカの言葉から彼女の不安を感じ取ったルードは、彼女に向き直った。
「俺は、というよりは、俺達がどうするか……ってことでいいんだよな?」
ライカが殊勝にうなずくのをみて、ルードの顔はほころぶ。ルード達の旅はまだ終わらないのだ。
「まずはサラムレに行こうと思う。叔父さん達やケルン達が、あそこに避難してるだろう? もちろんサイファにも会って、礼を言っておきたいし。……それからは……そう、ライカとの約束を果たしにいかないとな……」
アリエス地方――ライカのふるさとに行き、ライカを無事に送り届けること。これこそが最後に残っている約束だった。
だがそれはライカとの別れを意味する。どうにもやるせない寂しさに葛藤する日がいつかは来るだろうと旅の最中も思っていたが、その時は迫り来る困難に直面していたために心の片隅へと追いやられていた。しかしアリューザ・ガルドに還ってきた今、ほど遠くない未来に別れは現実のものとなるだろう。
けれどもライカは――今度は不安を吹き飛ばすように、にっこりと笑って――ルードにこう訊くのだった。
「……で、それからはどうするつもりなの……わたし達は?」
意外な言葉だった。
ルードはぽかんとした表情をしたままライカを見る。
「え……約束を果たしたあと、俺達がどうするのかってこと?」
彼女の沈黙は、つまり肯定。今さらわたしに言わせたいわけ? といった面もちをして、ルードの答えをじっと待っている。
「そ、そうだな……」
ルードはライカへの愛おしさを深く感じながら、照れくさそうに鼻を掻いてみせる。
「この世界ってのを俺は見てみたい。それは前から思ってたんだけど、今こうやって空からアリューザ・ガルドを見ると、もうたまらなくなったんだ! 大きな森にも、そのまた向こうにある国々にも俺は行ってみたい! ……そう思ってる」
「それは面白そうね、ルード!」
ライカはそう言うと、嬉しそうにルードの腕に絡まる。
「フェル・アルムでの旅って、たしかに危険なことや分からないこともたくさんあったけど……いろんなところに行って、いろんな人に会えた……。今はまだ実感が湧かないんだけど、多分あとになって振り返ったら、わたしにとってすごく意義のある時を過ごせていた、そんなふうに思えるんじゃないかしらね。だからこれからも――」
――世界の情景に触れたい。さまざまな人に会ってみたい。