フェル・アルム刻記
§ 最終章 万象還元
そして今――ルードは真っ青な空間にたたずんでいた。
天上からは澄明《ちょうめい》な光が注ぎこんでいる。体が震えるほど冷涼なこの場所にあっても、光は暖かくルードを包む込む。光には、聖剣が持ち得ていた畏怖などかけらも感じさせない、自然のありのままの姿があった。
「ルード!」
再び頭上からジルの声。見上げると、まばゆいまでの光がルードの目をくらます。それが陽の光だと気付くには少し時間がかかった。太陽の存在など、ここ数日忘れていたのだから。
すっと、光を遮る影。それはジルだった。そして傍らにはルードの仲間達が――。
彼らもまた宙を浮遊しており、音もなくルードの高さまで降りてきた。
「やあ、ルード君!」
茶目っ気たっぷりにハーンは片目を閉じて、自分達の無事をルードに伝える。〈帳〉は力なく、ハーンの肩に寄りかかっていた。おそらくは自身の魔力を使い果たしてしまったのだろう。
そしてライカが――今までいつもそうであったようにルードに笑いかける。言葉にならない。ルードの唇はわなわなと動くほかなかった。
「やれやれ、間一髪で間にあったよ! ルードってば空間の歪みに落ちかけてたんだよ? もうちょっとでおいらの手に負えないところまで行っちゃうとこだったんだから、存分に感謝してちょうだいよ」
ジルは自慢げに胸を張ってみせる。
「……“還元のすべ”ってやつが働いた、そこまではいいんだけれどさ。反動で空間に大きな歪みが出来ちゃって、みんな空間の狭間に落ちちゃいそうになったんだ。――げんに、デルネアの家来達はみんなその中に落ちてしまったんだけど――なんとかライカ姉ちゃん達はおいらが見つけ出せたんだ。けど、気が付いた時にはルードがどっかに吹き飛ばされちゃってて、実はどうしようもなかったんだけどね――なんと、ライカ姉ちゃんがルードの声を聞きつけたんだってさ!」
ルードはライカの顔を見る。照れくさそうにはにかむ、そんなライカの表情がとても愛らしく映った。
「――でその時、おいらもルードがどこら辺にいるのか分かったんだ。しかも運が良かったんだよね。ルードが歪みの手前で止まっててくれたんで助かったよ! それに、ウェスティンにいるディエル兄ちゃんが、ちょうど反動の力を抑えてくれてたし。だからおいらも空間をかいくぐってルードをたぐり寄せることが出来たってわけだけど……ねえってば……ひょっとしておいらの言ってること、全然聞いてないんじゃあないの?」
ジルがぼやくのも無理はない。ルード達、運命の最中にあった仲間達は肩を寄せ、嬉しそうに抱きしめあっていたのだ。
「まったく……。まあ、また会えてよかったよなぁ。うん」
やれやれと、ジルは大げさに両手を横にあげてみせた。
「……さて、と! おいらもやることはきっちりやってのけたし……ぼちぼちと行くとしましょうかね。ねえ、ハーン!」
ハーン達はジルのほうを見た。
「なんだい、ジル」
「あとのことは任せたからね! おいらはディエル兄ちゃんのところに還るから! ええと、あと色々言いたいこともあったんだけど……あはは……いざとなるとうまく言えないや。……じゃあ、またいつか会えるといいね!」
感きわまりそうになる感情を抑えようとしているジルがいじらしい。
「分かったよ。あとのことは僕に任せていいからさ」
ハーンは笑った。ジルは肩をすくめ、おどけてみせる。
「それじゃ! おいらはここからおさらばするよ!」
そう言ってジルは“音”を発して、透明な球体を作りあげた。それは風船のように膨張し、ルード達をすっぽりと覆うように広がった。
「こいつは、おいらからの置きみやげだよ。この中にいる限り、まっさかさまに落ちることなんてないからさ。――じゃ、さよなら、だね!」
そしてジルは陽気に宙でとんぼ返りをすると、空間を割るようにしてふっと消えてしまった。
「ジル、本当に色々と、ありがとうな!」
「最後に、サイファにもちゃんと会ってあげてね」
「ディエルにもよろしく言っといてちょうだいな!」
ジルが渡った空間は今にも閉じようとしていたのだが、ルード達の呼びかけに応じるように、ジルの片手だけが隙間からにゅっと現れ――まかせてくれと言うようにひらひらと舞い――そして空間が閉じた。
「ほんと、あの子も明るい子だったねえ」
ぽん、とハーンの手が後ろからルードの頭にのせられた。彼は自分の子供達をあやすかのようにルードとライカの頭を優しく撫でるのだった。
「ハーン、くすぐったいって。それにちょっと恥ずかしいよ」
ルードは、そしてライカも照れたように笑う。しかしハーンは撫でるのを止めず、当惑する二人の表情を楽しんでいる。
「なんと言っても本当、よくやったよ。……さあ、ごらんよ。僕らの下にある景色を、さ!」
言われるままに、ルードは真下を見た。それまで白い空間だったそこにあったものは――。
「わわっ?!」
ルードは驚き、ハーンの上衣の裾をきつく握った。あまりの仰天のためか、ルードの口はぱくぱくと開くものの、そこから言葉が紡がれることはない。
「きゃっ!」
ライカもまた小さく悲鳴を上げる。瞬時に状況を見て取った彼女はとっさに翼を広げ、ルードのほうにぐるっと回り込むと、彼の身体を支えようとする。
「ちょっと! まさか……わたし達、空にいるわけなの?!」
そう。彼らのいる青い空間は大空だったのだ。
天空と呼ぶに相応しく、見渡す限り澄み渡る青。頭上にはさんさんと太陽が輝いている。“混沌”の襲来の最中、半ば忘れかけていた、当たり前ながらも美しい自然の風景の最中にルード達はいるのだが――彼らの足下には何もなかった。
慌てふためくルード達のさまを見て、ハーンはくっくっと声を殺して笑った。
「大丈夫だよ。ジルが言っただろう? あの子が残してくれたこの球の中にいる限りは、落ちるなんてことないんだからさ」
ルードはばつが悪そうにハーンの裾から手を離すと、おそるおそる真下を見ることにした。その横でやはりルードを支えるようにしながら、ライカも眼下を見やる。
「わ……」
小さく、ライカから感嘆の声があがった。
* * *
そこには――世界が広がっていた。
遙か下には広大な平野があり、ところどころに街らしきものが見える。それらは中枢都市群と呼ばれる南部の街の集まりであろう。つと視線を北方へずらすとそこは湖。太陽の光を受けたユクツェルノイレ湖の水面はきらきらと輝いて見えた。そこからさらに視線を移す。うすぼんやりと見える平原は――決戦の地、ウェスティン。
「驚いた……な」
ルードは目を丸くしながら、大地の様子をきょときょとと見て回った。
「俺達は今、フェル・アルムの上にいるってわけなのか!」
スティン山地、ムニケス山頂で目にした景色よりも、さらに多くの風景が映っている。
「そう。僕達は今フェル・アルムの空高く、しゃぼん玉のような球に包まれて、大地を見渡してるってわけさ。だけれどもね、それだけじゃあないんだ。ほら、今度はこっちのほうを見てごらんよ。……どう? 見えるかな?」
ハーンの指さす方向を、ルード達は見た。