フェル・アルム刻記
十一. 発動
ルードの足下から地面の感触が消え失せたかと思うと、次の瞬間とてつもない衝撃が――ガザ・ルイアートが“混沌”をうち破ったのと同様か、それ以上の衝撃が――空間を揺さぶる。まるで足下で爆発が起こったようにルードの体は宙に舞った。
四肢に言いようのない激痛を覚えながらも、ルードは皆の姿を探した。ほんの一瞬、ライカとハーンの姿を見いだし、お互いの顔を見合わせる。が、安堵するいとますらルードには与えられず、彼らとは遠ざかってしまう――
もはや自分自身の意志だけではどうしようもなかった。ルードはなんとか彼らを見つけだそうと精一杯もがくものの、やがて視界は濃霧に包まれたように何も見ることが出来なくなった。またも爆風のような衝撃が起こり、無情にも彼を吹き飛ばす。
そして――ルードの体は放たれた矢のように、猛烈な速さでまっすぐ吹き飛ばされていく。周囲の全ては白一色となり、ルードの体はその空間を突っ切り、飛んでいくのみ。
人が雲の中を飛ぶとしたら、このような感覚を覚えるのかもしれない。あるいは翼を得たライカも――。
奇妙この上ない空間である。こんなにも速く飛んでいるのに周囲は全くの静寂に支配され、風を切る音すら聞こえてこないというのだから。
この空間はトゥールマキオの森でも、ウェスティンの地でもなく――もはやフェル・アルムでもなかった。
自然の理《ことわり》からかけ離れたここに存在するのは、“白”という単色のみ。それ以外の色も音も存在しない純白の中にあって、ルードだけが異質の存在となっている。
先頃のデルネアとの戦いの最中、ルードは混濁とした暗黒の空間に陥ってしまった。もしかすると今自分がいるこの空間は、その時の暗黒と表裏一体となっている世界なのかもしれない。
四肢を襲っていた激痛も、この空間を飛んでいく中でいつしか消え去っていた。否、視覚を除いた感覚の一切が、この空間では拒絶されているようである。
ただ一つ明らかなことは、自分が今までどおりの自分として――肉体を持った一人の人間として――生きているということ。今のルードが感じるのはそれが全てであった。
ルードは心のなかで何度となく悪態をつき、沸き上がってくる焦りを必死にひた隠そうとしていた。
十七年の人生の中で、自分の意識が明瞭であることが、これほど疎ましく思ったことはない。どうあがこうとも今の状態が好転しないということに絶望するしかないのだから。このまま自分はどこへ向かって行くのだろうか? 空間はどこまで行っても白一色のみ。果てなどありはしないのかもしれない。
そして何よりルードの心を締め付けるのは、自分以外に誰もいない、という孤独感。それを意識するたびにルードの胸は張り裂けそうになるのだった。〈帳〉や隷達、ハーンもそしてライカも、還元のすべが発動したと同時に散り散りとなってしまい、今となっては所在など分かろうはずもない。
(まさか、還元のすべは失敗したんじゃないか?!)
ふと浮かんだその不安は、次第次第にルードの心を陰鬱に覆い尽くす。
またルードは、かつて〈帳〉が語った言葉を思い出していた。
『――ついに空間の隔離、転移の術は発動したのだ。だがそれと同時に、予期せぬ強大な反動力が働いた。かたちを持たぬ力が我々に襲いかかり、幾多の者が衝撃のため吹き飛ばされて空間の狭間の餌食になり、力を直撃した者は跡形もなく消え失せてしまった――』
アリューザ・ガルドからの転移に際して、途方もない反動が襲い、そのために〈帳〉の愛する人は亡くなったのだ。
ルードはかぶりを振った。
(ろくなことが思いつかない! いっそのこと、こんな意識などふき飛んでしまえばいいのに!)
白一色のなかを猛烈な速さで空を切りながら、ルードの心はさらに苛まれていく。
いやだ。
いやだ。
せっかくここまで辿り着いたってのに、あと一息のところで全てが無駄になってしまうのはいやだ。
(何より俺は……失いたくないんだ!)
白い空間の中で彼は、薄い紫色のさした銀色を――彼女の柔らかな銀髪を想起していた。ルードの唇から幾度となくこぼれでる言葉は次第次第に確固とした音となっていく。それは彼女の名前であった。
「……ライカ!」
ついにたまらなくなり、ルードは大声で叫んだ。音の存在しない空間の中で“ライカ”という響きが唯一の音となって支配する。そして彼女の名を呼んだ途端、ルードの体は彼の望むとおりにぴたりと止まり、宙に浮遊するようになった。
天も地もあり得ない世界の中で、彼はひとり立ちつくす。
何かが起こるに違いないという期待を持ち、ただ待つ。
その時。
「見つけた! ルード!」
ジルの声が頭上から聞こえた。
途端――白い空間はいっぺんに霧散した。