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フェル・アルム刻記

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「……我はこの中に入り、大樹の力を喚び起こすのだ」
 デルネアは振り向くことなく言って返した。
「力を喚び起こすのならば、ここにいるままで十分ではないのか? なぜわざわざ樹の中に入るというのだ」
 〈帳〉は怪訝そうな顔でデルネアに問いかけた。
 デルネアは歩みを止めたがやはり振り返らず、〈帳〉に背中を向けたまま言った。
「――〈帳〉よ。我は、敗れたのだ。もはやそのことについては語りたくもないが。……だがな、我《われ》が一つの世界を望みのままに創造し調停していた、ということ。しかもこの世界には魔物が存在せず、さらには貧民街と呼べるものもない理想の国家であるということ。これらの事実を覚えておくがいい。何より、遙か太古にアリュゼルの神々が行った世界創造を、我は成し遂げたのだ! 我は実に至福であったぞ!」
「まさかデルネア。貴方は……」
 その言葉に感じるものがあったのか、〈帳〉の表情は急に険しいものとなる。
「待て、デルネア!」
 彼はデルネアの左腕をつかみ、その場に押しとどめようとした。
「ならば私も貴方と同様の行動をとろう。この大樹の中に入り、貴公とともに術を発動させよう……」
 その言葉は〈帳〉らしくなく、せっぱ詰まったかようにもルードには聞こえた。
 不意に、ルードは急に胸元が痛くなるような感覚を覚えた。それが何によるものなのか当のルードでも分からないが、深い哀しさを感じた――。
 デルネアは強引に〈帳〉の手を振りほどいた。
「デ……ルネア……」
 〈帳〉は呆気にとられたまま、空となった自分の手をじっと見つめるほかなかった。

 デルネアは再び歩き始める。〈帳〉やほかの者に背を向けたまま、彼は木のうろの中に姿を消そうとしている。うろに入る手前で彼は立ち止まり、皆のほうを振り返った。
 その表情――デルネアの顔からは険しさが一切消え去り、清々しさすら伺える。だが彼の眼差しはルード達を見ているのではない。トゥールマキオの森すら越えた、どこか遙か遠くを見据えているようだった。
 デルネアの表情を見てルードは、なぜ自分の胸がきりきりと痛むのかを悟った。これは訣別なのだ。デルネアと〈帳〉は、今生出会うことはあり得ない。
「――“ここ”にとどまるのは我ひとりのみだ。他の者の介入は――ならぬ。それがたとえウェ……〈帳〉であってもな」
 デルネアの言葉を聞きながら〈帳〉はぐっと堪えるように、唇を一文字に結んでいる。
「……分かった。デルネア……」
 震えそうになる声を抑えているのが傍目からも分かった。
「〈要〉《かなめ》様ぁ!」
「どうか、どうかおひとりだけで行かないで下さいまし! 我らもお供つかまつります!」
 口々に隷達がデルネアに呼びかける。主に対する忠誠心以外、感情という概念そのものすら放逐してしまった彼らに感情がよみがえったのだ。皆一様に銀色の仮面で覆っているため、彼らの顔を見ることは出来ないが、声を聞くに彼らの中には老人もいれば、まだ声も変わらないような年端のいかない少年も、女性もいるようだった。彼らは突如わき起こった感情を抑えられずに、幼子のように泣き喚きながらデルネアの名を呼んでいる。
 デルネアはそんな哀れな彼らを見やった。
「隷どもよ。我ではなく、今は〈帳〉の助力となってくれ。彼の魔力ではいささかこと足りぬからな。貴様らの魔力が必要なのだ。では、な……」
 そう言うと、彼は小さく手を挙げ――大樹の中へとひとり消えていった。
 それは友人に、再会を期した別れをする時のような、ほんのさりげない仕草であった。

「ついに……ついに、フェル・アルムで貴方は私の名を呼ぶことがなかったな。我が友よ……」
 隷達が慟哭する中、ぽつりと〈帳〉が漏らす。
 ライカは木のうろを見つめたままつぶやいた。
「デルネア……悲し過ぎる人なのね……」
 その言葉は、ルードの胸奥にしみた。
 ウェスティンの地でデルネアと剣を交え、そして“名も無き剣”が自分の体に突き刺さった時、ルードはデルネアの過去の姿をかいま見た。
 彼の傲慢さの影には、どれほどの悲しみが潜んでいたというのだろうか?

* * *

 還元のすべが始まる。

 まずは〈帳〉によって“呼び出しのことば”が放たれた。〈帳〉や隷達を取り囲むようにして、緑色の力場が半球状に形成される。
 〈帳〉は奇妙な抑揚をもってさらに詠唱を続けていく。彼の腕が踊り子のようにしなやかに宙を舞う。その都度、周囲に形成された半球状の力場には、トゥールマキオの森が内包する魔力の“色”が塗り込まれていく。
 半球の中に“色”を織り込んでいく〈帳〉を、ルード達は静かに見守っていた。ライカはルードの袖をつかむと、大樹の上方を見るように、と彼に促した。大樹を見上げたルードは、その生い茂る葉の全てが、煌々と蒼白い光を放っているのを見た。
 蒼い光は、デルネアが所持していた剣が放つ蒼白い光を想起させるもの――おそらくデルネアは幹の中で、大樹の持つ力と剣の持つ力を融合させたのだろう。光はやがて枝、そしてついに幹までを覆い尽くし、さらに周囲の木々にまで広がっていく。薄暗い深緑の木々はいつしか、幻想的な蒼白い光を放つようになった。
 ふと〈帳〉は詠唱を中断し、木々の様子一本一本を見て取る。そして彼は大樹に向き合う。楽師達の奏でる楽曲が予期せぬ事故によって中断されたかのような、そんな奇妙な静けさ。詠唱を止めたまま〈帳〉は無言を押し通している。彼は樹の内側にたたずんでいる旧友を見ているのに違いない。〈帳〉の胸中はいかなものなのだろう。そしてデルネアは今、どのような表情を浮かべているのだろうか?
 ほうっと。〈帳〉はゆっくりと息を吐き――意を決したように身を翻した。彼は両手を力強く天に突き上げる。
 一瞬にして魔導の力場は膨張し、大樹を、そして森そのものをも覆い尽くした。わあん、と、巨大な鐘が幾重にも鳴動するような音が周囲を包み、森の蒼が半球に溶け込んでいく。
 音はなおも大きくなり、耳を塞いでいても容赦なく響いてくる。蒼白い光をも取り込んだ半球は、今度は奇妙に収縮を繰り返すようになった。
 いよいよその時が訪れたのだろう。
 還元の時が。
 そう思ったルードはとっさに〈帳〉の名を呼んだ。巨大な音圧に阻まれ、自分自身の声すら聞き取れないが、〈帳〉は意を介したのか、ルードにうなずいてみせた。

 そして――〈帳〉によってもたらされるのは魔導の締めくくり。“発動のことば”。
 〈帳〉の放ったその声は、鳴動する音よりも遙かに大きく周囲に響き渡る。
 と同時に、包み囲む天幕のような球は一気に凝縮し――〈帳〉の手の中で一点の白い光となり――そして爆ぜた!



作品名:フェル・アルム刻記 作家名:大気杜弥