フェル・アルム刻記
十. トゥールマキオの森
異変は“音”とともに起こった。
周囲の様相がとぐろを巻きながら、ぐるぐると溶け合っていく。あまりに奇妙なさまにルードは驚きながらも、ジルの肩をぎゅっとつかんだ。ライカも同様にジルの腕にしがみつく。ジルは顔をしかめて二人を見た。
「痛いってば! ……そんなに強くつかまなくたって空間の隙間からは落ちやしないって……」
やがてウェスティンの情景が跡形もなく消え失せた。かわってルードの視界に映るのは、まるで目を閉じて太陽を見上げている時感じるような、曖昧としたまばゆさ。それすらも、奇妙な浮遊感が訪れるとともに暗転していった。
* * *
「ルード、だいじょうぶ? ……おーい! 返事しろってば」
ジルに声をかけられて意識を取り戻したルードは、自分が呆然と立ちつくし、深緑の空間を見ていることに気付いた。
果たしてどのくらいの時間が経ったのだろうか。それは一刻ほどとも、ほんの瞬きをする間とも感じられた。
目に映る、この緑色はなんだろう?
ルードが疑問を感じると同時に、焦点のぼやけたかのような曖昧な様相は、次第に鮮明な風景へと移りゆく。
大地を感じる力――セルアンディル特有の力と嗅覚が、遠く離れた地に辿り着いたことを彼に告げた。
森の緑と匂いは、静寂とともにルード達を包み込む。それらはどこか暖かく柔らかい印象があり、スティンの森の雪山特有の装いとはどこか異にしているのが感じ取れる。
そして――眼前には、他の木を圧倒するまでの存在が――大樹があった。
ルード達は、運命の旅の終着地、トゥールマキオの森に転移したのだった。
* * *
畏怖。
人は大樹に畏れの心を強く抱くことだろう。
「わあ……」
周囲からも誰となく、自然と声が漏れる。
ルードにとっても、この木の雄大さにはただ圧倒されるだけだった。幼少期、故郷で遊んでいた大きな木よりも、またスティンの山で目にしているどんな木よりも遙かに大きいそれ。幹の中にルードの家一件くらいはやすやすと入ってしまうかもしれないほど太い。
ごつごつした木肌からうかがえるのは、木が数えたであろう歳月の深さ。大樹はフェル・アルムが創造されるよりもさらに前から、アリューザ・ガルドの歴史を静かに歩み、このうっそうとした森を見つめてきたのだ。
見上げると巨大な幹からは無数の枝が四方八方に伸び、青々とした葉を覆い繁らせている。ルード達のいる場所が薄暗く思えるのは、これらの枝によって空が遮られているからだ。おそらくこの上空は、ウェスティンの地と同様の虚ろな灰色を映しているのだろうが、その様子を伺い知ることは叶わない。
そしてセルアンディルの感覚がルードに伝えてくる。広大な大地の力が凝縮されて樹の中に蓄えられており、どっしりとした木の根本からは、数多の大地の力――龍脈が森の全てを包むかのように放たれているのだ。
ルードの足下にある大地は、水を吸って湿っており、じとじとした感触が靴底からも伝わってくるが、それは心地よいものだった。この感触は“混沌”によって腐ってしまった大地のぬめりとは違う。確固たる生命の躍動はルードに、この森が持つ力強さと優しさを教えてくれる。
〈帳〉とデルネアは、大樹の根本にて静かに対峙していた。
沈黙が周囲を包む。
両者はもはや威圧感を発せず、ただ向き合うのみ。緊張した感など無く、むしろ穏やかさすら感じられるものの、今この両者に口を挟める者などいないだろう。人なつこいジルが〈帳〉に声をかけようとしたが、その雰囲気のためにためらった。ルード達には、固唾をのんで両者を見守るしかなかった。
歴史はついに、二者に委ねられる。
大地を転移し、空間を閉鎖する天幕を創り、そして悲しみのあまり隠遁した〈帳〉。
虚構の歴史を捏造してまで、望む世界を築いたデルネア。
フェル・アルムを創造した両者によって、フェル・アルムは還元されようとしている。
還元。
それは〈帳〉にとって、自らが“罪”と感じていることの浄化だろう。またデルネアにとっては悲劇であり敗北だった。
「ここが還元の舞台、トゥールマキオの森。そしてわが住まいたる大樹だ」
デルネアが木を見上げて語る。その口調からは傲慢さを感じさせなかった。
「ふむ……私がこの森に来るのも十三年ぶりとなるのか。あいも変わらず美しい森だ。私がエシアルルであることを実感させてくれる……」
と〈帳〉。感慨深そうに両の目を細めた彼は、このトゥールマキオの森と大樹に自分の過去を重ねているのに違いなかった。
アリューザ・ガルドにはアブロットの大森林という広大な森が広がっていると聞く。そこが“森の護り”エシアルルの故郷である。その森の中央に存在する巨木は“世界樹”とよばれ、彼らの長にしてディトゥア神族のファルダインが住まうのだ。
「とうとう私達は、フェル・アルムの結末を迎えることとなるのだな。デルネアよ。慧眼のディッセが語ったことは真実だ。空間の封鎖が解かれた今こそが還元の唯一の機会であるが、いずれ再来するかもしれない“混沌”から世界を守るすべなど何もない。だからこそ猶予がないのだ。私達は――」
「分かっている」
〈帳〉の言葉を遮って、デルネアが言った。
「このフェル・アルムを創り上げた時と同様、還元のためには、術者達の魔力と、大地の力。そしてアリューザ・ガルドには存在し得ない異世界の力を使用することとなる。この三つの力があってこそ、還元のすべは発動する。術者とはすなわち〈帳〉よ、お前と隷どもだ。大地の圧倒的な力を持ち得ているのは大樹。そして異世界の力は我の剣が有している。我はこの剣の力と、大樹の力とを増幅させよう」
かつてデルネアが“閉塞されし澱み”という異空間で得た“名も無き剣”は、主の意志を感じ取ったかのように、ぼおっとした蒼白い光を刀身にまとった。
「剣の力に、魔導の威力を相乗させるのだな」
〈帳〉が言った。
「では、われら術師が発動させることばを教えてほしい」
それを受けてデルネアが口を開いた。
「六百年前、魔導師達とお前が転移の際に唱えた言葉を覚えているか? 還元を発動させるには、転移の際と対になって存在している“原初の色”を紡ぐこととなっている。我は魔導には明るくないが、お前ならば分かるだろう。どういった“色”を、ことばを紡ぐべきかを」
かつて“最も聡き呪紋使い”とも“礎の操者”とも称されていた魔導師はうなずいた。
「そう。転移のすべを発動する際には、アリューザ・ガルドに存在する“原初の色”を何色も複雑に編み上げて術の力場を作りあげていた。あの時抽出した“原初の色”と対となる“色”を、この森から抽出すればいい。そうして作りあげた力場を、残り二つの力と融合させ……発動、となるのか」
〈帳〉はぐるりと周囲の景色を眺め、しばし感慨に耽っていたが、口を開いた。
「では、還元のすべを発動させる!」
〈帳〉の言葉を聞くやデルネアは剣を携え、ひとり巨木のうろの中へ入っていこうとする。うろから上ったところに彼の住まいがあるのだ。
「デルネア、貴公は我々とともに立ち会わないのか?」
〈帳〉が呼び止めた。