フェル・アルム刻記
それはルードも同様。ガザ・ルイアートの力を行使した彼とは言え、自分自身が“混沌”を追いやった実感を未だ感じ取れないでいた。
「どうやら、“混沌”を追っ払ったらしい……な?」
自分の為したことがどうしても確信出来ないためか、ハーンの顔を伺いながらサイファに答える。
「そのとおり。“混沌”は去ったんだ。君のおかげだね……」
ハーンは言った。レオズスたる彼にとって“混沌”を目の当たりにしたのはこれで二回目だ。自分は“混沌”に魅入られてしまったのに、聖剣は――そしてルードはそれを打ち破ったのだ、どこか感慨深いものがあるのだろう。ハーンは口を真一文字にしめて黙りこくった。
「……羊飼いのみんな、これからどうしていくんだろうな」
ルードは、何もかも消え失せた北の情景を見つめながら、ぽつりとこぼした。
「それは私の考えることでもある。避難民の救済が最優先だろうな」
サイファが言った。
「アヴィザノの執政官や地方領主達、それにみんなの力を借りて、これからのフェル・アルムの有り様を考えていかなければならないんだ。色々なことがあったけれども、私はここまで来て、良かったと思っている」
才覚に欠ける凡庸な君主だと、彼女自身ぼやくことがあるが、サイファこそがこれからのフェル・アルムに相応しい指導者になっていくのだろう。
「ふむ。“混沌”は去ったか」
聞き覚えのない声。ルードは――ライカ達も――周囲をあらためて見回した。
すると、ハーンの横に老人と女性の姿があった。
いつの頃から彼らはここにいたというのだろう? 先ほどまでは確かに、自分達を除いては誰もいなかったというのに。ハーンも、目を丸くして、突然のこの訪問者に驚いている。
老人は目を細めてハーンの肩を叩いた。
「わしのことが分かるかね? 少し前には一緒に演奏をやっていたじゃろうに、まさか、もう忘れたとは言わせんぞ?」
「え……。あなたは確か、ディッセ?」
ハーンは記憶の中にある名前を思い出した。ずいぶんと昔のようにも思えたが、あれはほんの十日ほど前のことだった。ディエルを連れてクロンの宿りからスティン高原に向かう途中の野営地にて、年老いたタール弾きとともに曲を奏でた。その時、レオズスの記憶が“ディッセ”と囁いたのだった。
老人はにこりと笑った。
「見事、闇をぬしの力としたようじゃの、宵闇の公子よ。“混沌”と決別したそなたを見るのはまこと嬉しいことじゃ! われらディトゥアの長、イシールキアも喜ぶに違いないぞ。かつての裁きの時は、彼もそうとう心を痛めたのだからな」
「あ……マルディリーン?!」
ルードは女性に向かって言った。彼女はルードの姿を確認すると、微笑んで手を小さく振ってみせた。
「お久しぶり、となるのかしらね、ルードにライカ。ここフェル・アルムで、こうやって会えるとは……嬉しいものね」
そうしてマルディリーンはルードとライカに、またディッセはハーンに対し、相手を紹介した。
ディトゥア神族のなかでも賢者として知られる慧眼のディッセ。その娘がイャオエコの図書館の司書長マルディリーンなのであった。
「ほれ。おぬし、これを忘れていったじゃろう?」
ディッセは背におぶっていたものをハーンに手渡した。
「これは……僕のタールじゃないか!」
ハーンは両腕にタールを抱えると、その感触を懐かしむかのように撫で、そして弦をつま弾いた。やや調子を外していたが、暖かみのある音がこぼれ出ていく。
「ありがとう! スティンで僕が……“混沌”を抑えようと家を飛び出してから、どうなったもんかって気になってたんだ!」
「まったく、タール弾きがなんたることよ! 命の次に大切な楽器を置いていくとはの」
ディッセが高笑いをした。
「でも、なんであなた達がこの世界に入ってこれたんだい?」
ハーンがディッセに問うた。ディトゥアとはいえ、閉鎖されたこの世界に入ってくることなど叶わない。ディエルとジルが訪れたのは意図的ではなく、半ば偶然によるものだった。
「空間の閉鎖が全て解かれたからよ、レオズス。だからこそ、普段は世界に干渉しないわしらも、ここに入り込めたんじゃ」
ディッセは答えた。
「さあて、“混沌”を追いやるとともに、この世界を覆っていた結界――“見えざる天幕”が完全に瓦解したわけじゃ。しかし今のフェル・アルムは、きわめて不安定なものとなっている。しかし結界がなくなった今こそが、還元の時! “混沌”が再びやって来ぬうちにことを起こさねばならん。時機を逸すれば今度こそ、“混沌”に飲まれてしまうだろう」
「否。遅かれ早かれ、いずれは終焉を迎えるしかない」
唐突にデルネアが言葉を放った。一同の視線はデルネアに集まる。デルネアはそれを気にかける様子もなく、ディッセに問いかけた。
「還元と言われたな。その方法を御身らはご存知なのか?」
デルネアの問いかけに、ディッセもマルディリーンもかぶりを振った。
「わしは“慧眼”と言われておるが、わしの知識は全てイャオエコの図書館の蔵書によるもの。そして知る限りでは、書物の中には還元のすべは載っていなかった。そもそも世界を切り離す手段自体、アリューザ・ガルドには存在し得ぬもの。だからこそデルネア、かつて異次元――“閉塞されし澱み”に赴いたお前さんの知識が不可欠なんじゃ」
「我の知識だと。ふん。そのような矮小なものを、“慧眼”と称される御身が欲されるとはな」
デルネアは口を歪ませ、自嘲するように小さく笑った。
「還元のすべを知るのが我だけだというならば、それはやはり絶望しか与えぬものだろう。――一週間! そう、一週間の猶予が必要なのだが、その間“混沌”が手ぐすね引いているとお思いか?」
「わしの読みでは――そなた達の時間にして一週間はとうてい保たぬじゃろう。今しゃべってる時間すら惜しい――」
「ならば全ては詮ないことだ。滅ぶほかない。還元のすべは、遙か南方のトゥールマキオの森においてのみ発動する」
ディッセの言葉を塞ぐようにデルネアが言い放ち、地面に横たわった“名も無き剣”をつかんだ。剣はなおも蒼白く光を放っている。
「デルネア!」
それを見たハーンの表情は硬くなる。デルネアを制止するため腰に差した剣をいつでも抜けるように、剣の柄に手をかけた。
「レオズス。御身が懸念するほどのことはない。我には戦う意志もなければ、それだけの“力”も失せた。……今はただ、剣を握っているに過ぎん」
デルネアは言った。
「――フェル・アルム創造に際して、我はこの“名も無き剣”をトゥールマキオの大樹の根本に置き、術の発動に臨んだ。あの大樹は、さながらエシアルル王の住まう世界樹のごとく、大地の力を流出させていた。そこに剣の力が加えることで、転移の儀式が発動し得たのだ。“名も無き剣”。これこそがフェル・アルムを切り離したすべを発動させる媒体。そして逆もまた真なり。しかしその力は、大樹においてでなければ発揮出来ぬ。もっとも、我らがその地に赴くのに一週間はかかろうがな……」
その時、ルードの裾がくいっと引っ張られた。見ると、ジルが何やら含みがありそうな表情でルードを窺っている。
ルードには、ジルの言いたいことが分かった。