フェル・アルム刻記
§ 第十章 終焉の時、来たりて 第四節
九. そして、為すべきことへ
「助かった……」
世界の破滅を想起させる天変地異の鳴動が止み、しんと静まりかえった周囲に、男のつぶやきが響いた。空のさまを恍惚と見上げていたケルンは、はっと我に返った。
避難民の列は歩みを止めていた。ケルンと同じように空を見上げている人も、うつ伏せになったまま震えていた人も、たった今、災いが過ぎ去ったことに気付いたようだ。緊迫していた雰囲気が消え、安らぎに満ちている。騒ぎ立てる者、涙をこぼす者――人々はそれぞれの思うままに、喜びを表している。
やがて人々は南方に対してひざまずき、祈りを捧げはじめた。ユクツェルノイレへの祝詞《のりと》を発する声が次第に増えていく中、ケルンは冷静に周囲の様子を窺うのみ。ひざまずく人の群を見て苦笑を漏らした。
「みんな、分かってんのかよ。神様が、なんかしでかしたわけじゃあないってのにさ……あれ?」
ふと横をみると、ミューティースが目をつぶり――地に伏せたりはしないまでも――手を胸の前で組んで、静かに祈りを捧げていた。
「ミュートまで……。神君のおかげなんかじゃない。結局のところ、ユクツェルノイレなんて、いないっていうんじゃあないか。こうなったのはルード達のおかげなんだぜ?」
「分かってるよ。ルード達にありがとうって、祈ってたんだよ、あたしは」
ミューティースは目を開け、ちらりとケルンを一瞥した。
「ケルンの言いたいことも分かるけれどね。でも、『神君が見守って下さっている』って、みんなはまだ信じてるのよ」
「ああ、でも、祈ってる人らが本当のことを知ったら、どうするのかね? 本当の歴史を聞いた時、俺だってにわかに信じられないって動揺したのに」
言葉の変遷、魔物の出現、そして“混沌”の襲来――。フェル・アルムの民は数々の異変に直面した。常識というものに囚われている人々の中には、それら異常きわまりない災禍にどう対処すればいいのか分からず、自分自身の壁を乗り越えれずに苛んでいる人も多い。
今まで伝わってきた歴史が、嘘に塗り固められたものだといずれ公表されるだろう。それは緩慢な平和に依存してきた人々を覚醒させる薬ではあるが、いささか強過ぎる薬でもある。反動、副作用もまた伴うものだろう。
「……そうね。あたし達にとってはこれからこそ、本当に大変なのかもしれない。今までだって南のほうは混乱してるって話、シャンピオから聞いてるからね……」
ふと、二人は申し合わせるかのように、北方を見やる。
「スティンが……無くなっちまったんだなあ、ものの見事に」
ケルンがぽつりと言った。人智を越えた変動を目の当たりにしても、喪失感が実感として、今はまだ湧いてこない。
「あそこでもう羊を飼って暮らすことなんて出来やしないけど……それでも俺は、羊飼いをやっていきたいんだ!」
スティン。そこにはつい昨日までは山々が連なり、麓には青々とした草原が広がっているさまが見えていた。羊達が牧草をはみ、羊飼いはただ平凡な日々を送る――そんな純朴な暮らしが確かにあったのだ。しかし今、スティンには何もなかった。“混沌”に飲み込まれた大地の痕が、否定の叶わない現実であることを語っている。
それでも、ミューティースはケルンに笑いかけた。
「大丈夫! あんたとあたしならやっていけるよ。今度、セルのほうに行こうよ? 羊がいれば、あそこの高原でも暮らせていけるもの」
ケルンは照れ隠しのためか、ミューティースからすっと離れた。そのため彼女から不平の声があがる。
「ま、羊はさ……大人達がスティンから連れてきた何匹かを、分けてもらわなきゃな。あっちに行くんなら」
ぶっきらぼうな口調でミューティースにそう言いつつ、ケルンは自分が歩いてきた方角を見据えた。ウェスティンの地ではどうなっているのだろうか。そして自分の幼友達は? 重圧に耐え抜いた親友のところに今すぐにでも駆けつけ、やや乱暴に称えてやりたかった。
(無事なんだよな? ルード。本当に世界が終わっちまうのかと思ったけれど……実際、まだ俺は心臓が破裂しそうなほど驚いてるんだが、どうやらお前がうまくやってくれたに違いないと思ってる。あとは……俺達のことは心配しなくても大丈夫だ。ありがとうよ! お前ってやつは……)
そのように思いを馳せながら、知らず知らずのうちに祈るように手を組んでいたのに気付いたケルンは苦笑した。ひょっとしたら、そこかしこでひざまずいている人々の想いも、自分とまた同じなのかもしれないな、とケルンは思った。
盲信的な祈りではなく、感謝のあらわれ。
「なに、手なんか組んじゃってさ。ん? 神君なんていないんじゃあなかったっけ?」
ミューティースがケルンをからかうように、彼の周囲をぐるりと回った。
「俺だって、たまにはルードに感謝することだってあるさ」
ケルンは素っ気なく言った。
「けど、あいつめ。いつの間にやらとんでもなく大物になっちまったんだな。俺なんか、相も変わらず冴えない羊飼い見習いだってのによ」
「そんなことないよ。あの子はいたって普通の子だよ。それにひょっとしたらケルン、もしライカと最初に出会ったのが君だったら、君が運命ってのに巻き込まれていたのかもしれないよ?」
「そうかもな。そう考えれば考えるほどやれやれ! つくづく運命ってやつは不思議なもんだよなぁ。俺達は運命に縛り付けられてるのか、それとも切り開いていってるのか、分かんなくなってくるぜ」
言いつつもケルンは、おそらくどちらも間違いではないであろうことを直感していた。ケルンはそこで考えを断ち切り、スティンの仲間達の様子がどうなっているのかを探りに、人々の中をかき分け歩き始めた。
* * *
ぼうっと立ちつくして空を仰いでいたルードは、ふと周囲を見渡した。それまで地に伏せていた仲間達もようやく立ち上がり、一様に空のさまを見上げている。ルードも彼らにならうように、再び灰色の空を見上げた。
“混沌”が追いやられたことを象徴するかのような鈍色《にびいろ》の空に今、光の薄い皮膜が出来ていた。おそらくガザ・ルイアートの光の産物であろうその膜は、風に揺れるカーテンのように、輝きながらゆらゆらとうごめく。ライカの故郷、アリエス地方では“極光《オーロラ》”という空の現象をまれに見ることがあるという。その美しさを彼女から聞いたことがあるが、ルードの頭上に揺れるカーテンもまた幻想的な美しさを醸し出していた。
「極光……?」
言葉が漏れる。それを聞いたライカは小さくうなずいた。
「やった!! やったんだね!!」
沈黙を破り、真っ先に凱歌《がいか》をあげたのはジルだった。ジルは無理矢理に兄の両手をつかむと、ぐるぐると回り始めた。ディエルも最初は困惑していたが、しだいに今度は弟を振り回してやろうと躍起になった。
それがきっかけとなったのか、張りつめた雰囲気が氷解していく。
「ルード……」
サイファは、双子のじゃれ合う様子に顔をほころばせながら、ルードに声をかけた。彼女は、口を開いたまま次の言葉を探していたようだが、的を射た言葉が浮かんでこない様子だった。