フェル・アルム刻記
「始源の力、“混沌”は、そもそもは世界が生まれた時と同じくして生み出されてしまった、負の極限の存在。これに飲まれたら最後、逃れることは出来ずに大地は消滅する。そして人間のように意志を持つ存在は、“混沌”の意識の一部に成り果て、永遠にも近い時間と向き合うことになる。けれども、そんな虚無と絶望の果てにある安定に、かつての僕は魅入られたんだ」
宵闇の公子たるハーンは語った。
「ルード、君が戻ってくれたことで、世界を滅びへの道から逸らせるかもしれない。今、聖剣を返すよ。あとは――聖剣と、その所持者である君の行動に任せるほかない。さあ、もう今はしゃべる時間すら惜しいくらいなんだ。受け取ってくれ」
ハーンは、刀身に輝きを取り戻した剣を差し出した。ルードは手を伸ばしながらも、ちらと横目でデルネアの表情を窺った。目を虚ろにしたまま、空の様子にすら関心を示そうとしなかったデルネアだが、ルードが剣を手に取ろうとしたその時、ぎろりとルードを凝視した。
またさっきのように壮絶な死闘を繰り返すのか、とルードは動揺したが、もはやデルネアの眼差しからは、狂気じみた覇気をみじんも感じ取ることがなかった。
「ルードよ、我は敗れたぞ!」
デルネアは吐き捨てるように言った。
「忌々しくも貴様の言ったとおりだった。聖剣は我のものにはならなかったのだ。だがこれで、貴様達が勝ったわけでもない――貴様が聖剣所持者だというのならば、為すべきことをやってみせるがいい」
デルネアもまた、世界の行く末を見定めようとしている。彼自身の思惑どおりに世界が、そして人が動かなかったとはいえ、デルネアが世界を憂えているのに昔から変わりはない。
「その“力”を、我にみせてみろ」
いつの頃からか心に芽生えた増長が彼を曇らせたとはいえ、デルネアもまた本質的には純粋なのであった。
「ああ」ルードは返答した。「聖剣の答えを、聞いてみる!」
そしてルードはガザ・ルイアートの柄を両手で握り、目の前に戦うべき相手がいるかのように構えてみせた。
剣の柄を通して圧倒的な“力”が流入してくるが、すでにそれはルードにとっては馴染み深いものとなっていた。しかし、聖剣の意志はさらに強まっていく。“力”のみならず、何か音にも似た感覚がルードの体を駆け抜けていく。ルードはこの感覚には困惑したが、聖剣の“力”を受け入れるべく力を抜くと、体を流れる音が次第に一つにまとまっていくのを感じた。やがてそれは一つの音となり、鐘楼の鐘のようにルードの頭に鳴り響いた。
「ガザ・ルイアート……」
頭に直接入り込んでくるその音は、はじめ高らかなものだったが、次第に落ち着いた音色へと変えていき、優しくルードの心を包み込みながらも語りかけてくるようになった。ルードにとっては、その心地よい音が聖剣自身の声のように思えた。母親の子守歌のようにルードの心に染み入ってくる優しい音に、ルードは心の中で問いかける。
(“混沌”をうち倒せる方法があるというんなら、俺にそのやり方を教えてくれ!)
頭の中の音は瞬間、止まった。まるでルードの問いかけに対して考えているかのようだったが、今度は幾重にも共鳴する、明朗な和音が奏でられるようになった。ルードは調べに聞き入りながらも、ガザ・ルイアートの意図することを必死に探った。
ぽろん、と竪琴のように透明感ある音が鳴ったのを最後に、聖剣は語るのをやめ、ルードの頭に静寂が訪れた。
その瞬間、ルードは為すべきことが分かったような気がした。それは自分にしか出来ないことではあるが、けして難しいものではない。余計な念は捨て無心となり、純粋なままに向き合えばいい。
(俺がやること……分かったよ。ガザ・ルイアート。それでいいんだな?)
主人の問いに答えるかのように、ガザ・ルイアートは剣そのものから周囲に対して、きぃんと鳴り響く高らかな音を放った。
それが止んだと同時に、刀身が暖かみを帯びた光に包まれる。剣全体を包みこんでいくその光はさらにまばゆさを増していく。
ガザ・ルイアートは“聖剣”であることを放棄したのだ。
* * *
ルードは柄を握りしめつつも、剣の変わりゆくさまを呆然と見つめるほかなかった。気が付くと柄の持っていた金属らしい感触、さらには剣そのものが持っていた重さそのものすらなくなっていた。
有るものは、他を絶するまでの圧倒的な“力”。聖剣はここに至り、剣としてのかたちを放棄して、一つの絶対的な“力”としてのみ存在するようになった。
“光”そのもの。
ルードだけではなくデルネア、そしてその場に居合わせた全ての者が目を見張った。
ルードは手元にある、棒状となった“光”の存在を見つめた。膨大な“力”を秘めながらも、優しく暖かい感じを併せ持っている。
「すっ……ごい」
ディエルは一言漏らしたきり、言葉を失った。“力”を求めていた彼にとってすら、今のガザ・ルイアートを形容する言葉がないのだ。
「なんてこった……どれくらいの“力”を持ってるんだか、オレですら全然分からないなんてな……」
「まさか、あれは“光”だというのか?」
〈帳〉が驚きの声をあげた。
かつてのアリューザ・ガルドの魔導師達が、追い求めてついに得ることが叶わなかった魔導の究極、“光”の本質が今ここにあったからだ。
アリューザ・ガルドにおいては、あらゆる生命・物質に魔力を帯びた何かしらの“色”が内在している。魔導を行使する際には、それらの色を物質から抽出し、あたかも織物のようにあやまたず、呪文を唱えながら編み込んでいくことで力場を形成する。出現した力場に対して“発動のことば”を唱えることによって、術が発動するのだ。
“光”とは、全ての色を内包した究極の存在。世界に存在する全ての色を織り込んだ際に出来上がるとされている力場なのだ。
その究極が今、このフェル・アルムにある。
“礎の操者”、“最も聡き呪紋使い”と称された〈帳〉が、語るべき言葉を失うのも無理はなかった。
「ガザ・ルイアートは、いつの頃からか、僕らの想像を超越した存在になっていたんですよ」
ハーンは〈帳〉に言った。
「もともとはルイアートスが創り上げた、土の加護を持つ剣だった。それが冥王との対決を経て、剣は思いもよらない力、つまり“光”の力を内包するようになって――そして今の“混沌”との対峙によってそれが顕在化した。“光”そのものの存在にまで、あれは昇華したんだ」
「……確かに、あれほどの“力”を魔導のように発動させれば“混沌”を追いやることも出来よう」
〈帳〉の言葉にハーンが応じた。
「そればかりじゃあない。悠遠の彼方に封じられたかの黒き神――冥王ザビュールの存在を、今度は完全に滅せられるかもしれません」
そしてハーンは、ルードをそして周囲の者達をも鼓舞すべく、明朗な声で高らかに歌い上げるかのように語った。
「さあルード! これが僕達の切り札だ! “光”をどのように使えばいいのか、僕には分からないけれども、聖剣所持者の君だったら分かるはずだ!」
「……ああ、分かったとも! ガザ・ルイアートが俺に教えてくれたよ」