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フェル・アルム刻記

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八. “光”と“混沌”と

 滅びの時が近づいている。
 黒い空は一時ウェスティンの地から退いたものの、消滅したというわけではない。
 かつてクロンの宿りを阿鼻叫喚に陥れた時のごとく、黒い空はいよいよ灰色の空を侵略し、今やウェスティンの地の上空を再び漆黒に塗り染めていた。
 漆黒の彼方には、さらに黒きものが明らかに存在している。
 宙の深淵たる闇よりもさらに絶望的なまでに黒い、あのように忌まわしくも超常的な存在は、色の概念一括りではもはや語り尽くせない。
 ありとあらゆる色の存在を拒絶する、まったく色無きもの。
 それこそが“混沌”。始源にして終末の存在。
 “混沌”が、漆黒の空の彼方から押し寄せる――黒よりもさらに黒い波を象り、北方からうち寄せようとしている。否、うち寄せるのではなく、覆い被さるという表現こそが相応しいのかもしれない。その波濤の上部は、おそらくはスティンの山々の頂よりさらなる高みにあるのだろう。
 この大津波の到来こそが、世界の終末を意味する。ウェスティンの地に覆い被さり、“混沌”のもとへと洗い流すその時、全ての希望は消え失せる。
 ほどなくフェル・アルム全土は、猛威を振るう始源の力を前にして、為すすべなく消滅するのだろう。しかし、“混沌”を追いやる力もまた、ウェスティンの地に存在していた。
 超存在に唯一拮抗する“力”と意志が。

* * *

 翼からこぼれでた最後の粒子がきらきらと輝きながら舞い降りる。それが地面に染みこむように消え去ってしまうと、周囲は再び暗黒に包まれた。
 ライカはぐるりと取り巻いている仲間達に微笑みながら、ルードの背中に回していた腕をそっとほどいた。
 ライカの翼によってウェスティンの地に帰還したルードは、あらためてアイバーフィンの少女のほうに向き直り、肩をつかんだ。
「ライカ……」
 ルードは愛おしげに、目の前の少女の名を呼ぶ。と、ライカはやや当惑しながらも、彼女らしい可憐な仕草でルードを見上げた。
 目の前にいるのはいつもどおり、飾ることのないライカの姿。さきほど闇の中から抜け出した際の彼女は、御使いのごとく神々しいまでの雰囲気をたたえていたようにも思えたが、実のところ彼女はあくまで彼女のまま。そんなライカを見ながらもルードは、安堵している自分に気付いた。
 飾ることがないと言うのならば、ルードも同じだった。
 セルアンディルの力を得、さらに聖剣所持者となった今となっても、自身が持ち得た“力”に増長することなく、あくまで自分自身を貫いている。
 ルードだけではない。宵闇の公子レオズスも、ドゥ・ルイエたるサイファも、栄華と絶望とをともに心に刻んでいる〈帳〉も、そして神の使徒たる双子も――彼らの持つ、奢ることない純朴な精神が互いに引き寄せ合ったのは、運命のもとによる偶然かもしれないが、彼ら自身が希望を生み出そうとしているのは必然であったのに違いない。
「ライカ」
「うん?」
 ライカの声。つかの間、思いに耽っていたルードだが、彼女が自分を見上げているのに気が付いた。ライカの顔をあらためて見つめると、ルードの心は詰まる。ルードにしてみれば、思わず名前を呼んだものの、次の言葉が浮かんでこない。何をしゃべればいいというのだろうか?
 感謝、歓び、愛おしさ――万感胸にせまったルードは、心の中に去来する全ての感情を、一片の言葉へと紡ぐすべを知らなかった。
 だからルードはライカを引き寄せ、言葉では伝えきれない想いを、直接彼女の心に伝えるかのように強く抱きしめる。
「痛いって、ルード……」
 そう言いつつもライカは拒む様子はなく、ルードの想いを受け止めるように、彼の背中にそっと手を回した。
 ややあって、二人はどちらからともなく、そっと相手から離れた。そのさまを揶揄《やゆ》すように口笛を吹いたのは――やはり金髪の青年にほかならなかった。
「さあルード、これで約束は守ったつもりよ?」
 ライカは、はにかみながらも笑ってみせた。ルードを守る、という約束は無事果たされたのだ。
「なら、最後に残ってる約束もちゃんと守らないとな!」
 ルードもまた、照れ笑いを浮かべながらもライカに言った。
「そう。破るわけには……いかない」
 今度は強い意志を込めて、ひとりごちた。超然たる事象の向こうにある、平凡な日常をつかみ取るのだ。

 ルードがあらためて周囲を見てみると、仲間達の輪から外れたところに、デルネアの姿を見いだした。座り込んだまま、皆とは――隷達とすらも――目を合わせようとしない彼は、自分と剣を突き合わせていた時のデルネアとは別人のように思えた。あの時の彼を包み込んでいた野心、覇気といったものが一切感じられない。自分のいない間にどういったことがあったのかは分からないが、デルネアをここまで打ちのめすほどの決定的な出来事が確かにあったのだろう。自身が望まざるにせよ、明らかにデルネアは敗北を受け入れていた。
 ぽん、と後ろからルードの肩が叩かれた。ルードは振り返ると掌をあげて、友人に軽く挨拶をする。こうして面と向かうのは本当に久しぶりの感がある。スティンで対面した時は、事態の異常性を前にして、再会の喜びなど感じるいとまがなかったのだから。彼は手を差しのばしてきた。
「よく、戻ってきたね。ルード君」
 普段と変わらぬ口調を保とうとするが、それでも震えて聞こえるのは、彼なりにこの再会には感慨深いものがあるのだろう。ルードもまた、再会を喜ぶように小さくうなずいてみせると、彼の手を握りしめた。
「……あんたもね。ハーン。いや、宵闇の公子殿と呼んだほうがいいのかな?」
「今までどおりで構わないさ。君からそんなふうに呼ばれると、どうも体中がかゆくなるみたいでたまらないからね」
 ティアー・ハーンは苦笑を漏らした。
「まあね、宵闇の公子レオズスなんて呼びかた、がらでもないよなあと思ってたんだ」
「久々に会ったのに、君も酷いこと言うなあ?! 僕だってディトゥア神族のひとりなんだよ?」
「そうは言っても、とてもじゃないけどハーンが神様だなんて思えないぜ」
 ルードはそう軽口を叩きながら、暗黒の空を仰ぎ見た。

 “混沌”の波はすでに上空まで至っており、いよいよ音もなく静かに、しかし尋常ならざる重圧をもって、全てを押しつぶそうとしていた。
「こいつが……」
 『これが“混沌”だ』と、そのあとに続けるべき言葉があったのだが、声に出してそのものの名を呼ぶことすらおぞましく、また恐ろしい。
 デルネアと相対した時とはまた異なる恐怖が、ルードを襲う。それは絶対的な存在を目にした時の人間の本能が呼び起こすであろう、畏怖の念なのかもしれない。ルードの足は知らずと震えだした。ライカもルードの袖にしがみつき、恐怖に耐えている。
「そう、これが“混沌”だよ。フェル・アルムに現れた“混沌”は、ほんのかけらに過ぎない。けれども、フェル・アルムの全てを滅ぼすには十分な力だろうね」
 ハーンは真摯な表情で天上を仰いだ。
作品名:フェル・アルム刻記 作家名:大気杜弥