フェル・アルム刻記
“名も無き剣”はルードに見せる。剣が存在するようになってから幾多の所持者が現れたことを。所持者達の思念はあまたのイメージを形成してルードの体を駆けめぐるが、すぐにルードは忘却してしまった。だが、そんな中にあってルードの心を強くとらえたもの。それはかつてのデルネアの姿であった。
それはまだ、デルネアがアリューザ・ガルドにて生活をしていた時分である。
何がしかの迫害を受け、流浪するほか無かった幼少の頃。
“魔導の暴走”という、暗黒の時代が到来する中、奴隷戦士として剣闘場で活躍する少年。
レオズスを倒すも、それまでの王朝は崩壊し、秩序が失われ、民衆が苦しみにあえぐ中で呆然とする若者。
そんなデルネアの想いはどの時代においても変わることがなかった。そして、おそらくは今も。
(もっと力を持ちたい。他を圧する力さえあれば、こんな目に遭わなくてすむというのに!)
それはデルネアの痛切な願い。自分自身を、そして世界をより良い方向に進めたいという彼の願いは、いつの頃からかその一途さゆえに歪んでしまったのだ。
そして彼はついに理想郷を創造する。永遠の千年――フェル・アルムと名付けた、閉鎖された大地に望むことはただ一つ。平穏。変化など一切許されない、緩慢なる平穏。
しかし〈変化〉は自然と始まっていくもの。歴史の中でデルネアは陰ながら動いて変化を消し去り、虚構の真理を創り上げていった。
“絶対”という名の殻の中に悲しみの全てを押し込め、歪んでしまった理念を追求しようとするかつての英雄。それがデルネアだった。
* * *
「ルードぉ!」
愛しい者のあげる痛切な声がルードの意識を呼び戻す。
長いこと見ていたように感じられたイメージも、おそらくは一瞬の出来事だったのだろう。ちょうど、剣の切っ先がルードの体内から引き出されたところだった。
今まで体を支配していた激痛は途端に収まり、自身の体が癒えていく。だがもはや体は衰弱しており、再びデルネアと戦うのはおろか、立つことすら叶わない。今はただ、ライカの暖かな腕の中に抱きかかえられているしかなかった。
「ルード、今、剣を抜いたからね!」
ライカ自身を襲った激痛に耐えぬいてなお、ルードに微笑みを見せる。そしてライカはきびしい表情でデルネアを見据えた。
「やめて! もうこれ以上……戦うのは!」
デルネアは空を仰ぎ見た。それまで覆っていた黒い雲は、潮だまりに貯まった海水が引くように、渦を巻きながらも、さあっと北の空へと帰っていく。空は明るみを取り戻すが、それすらも世界が崩壊していく際の産物でしかない、曖昧な薄ぼんやりした灰色の空に包まれた。
何より、黒い雲は去っていったわけではない。津波や濁流のごとく、今度は“混沌”そのものを伴ってこの地に襲いかかるのだ。
「もはや時は無い」
右腕を失ったデルネアはややも苦痛に呻きながらも、しかし尊大な口調で言った。
「“混沌”が到来する。我はその時にこそ、“混沌”と向かい合う。大いなる“力”を持ってすれば、フェル・アルムに出現した“混沌”など、造作もなく消し去ることが出来る――そのために聖剣が必要なのだ」
デルネアは身をかがませると、残った左腕で剣をとろうと動いた。それはデルネアの所持していた“名も無き剣”ではない。持ち主の手から離れ、今や鈍く銀色に光るのみとなった剣。聖剣ガザ・ルイアートだった。先ほどの激痛の最中、ルードは剣を離してしまっていたのだ。
「やめ――!」
ライカが叫ぶのもむなしく、デルネアは聖剣を手に取った。
輝きを失っていた聖剣は再び白く光り輝く。あたかも、新たな所持者を迎え入れるかのように。デルネアは恍惚とした表情で、剣が発する圧倒的な“力”に酔いしれていた。
「そうだ。この絶対的な“力”こそが我を至上に導くもの! “名も無き剣”が我にもたらした以上の“力”を、聖剣は与えてくれる。フェル・アルムは平穏を保てるのだ」
「絶対的な“力”だって?!」
ルードはやや身を起こし、デルネアに訴えかけた。
「そんなもので、俺達は支配されたくない!」
「だが、今や我の思惑以外にことは運ばぬぞ、小僧。お前達の些末な思いなど、所詮は達成出来ぬものだ。先も言ったように、今さらあがいたところで時すでに遅過ぎる。……なぜならば還元のすべを発動するには、トゥールマキオの大樹を媒体とせねばならない。遙か南の森まで赴く時間があるか?」
ルードは、空間を転移するジルのことを想起した。ジルがいれば何とかなるかもしれない。しかしここは押し黙った。
デルネアが聖剣を手にした今、状況は絶望的となったが、ルードの心には何かが引っかかっていた。聖剣がそうも容易くデルネアの手中に落ちるものなのだろうか?
「敗北を認めよ。かつての聖剣所持者よ」
「いやだ! 俺は認めない!」
ルードはライカに肩を借りながら、よろりと立ち上がった。
「俺達はみんな、今まで運命のまっただ中で、やるべきことをやりつつ、あえいできた。ガザ・ルイアートもそうだった。運命を切り開く剣、それがガザ・ルイアートだ。もし聖剣が意志を持つって言うんなら、聖剣の答えを聞いてみたい。聖剣は……俺達の想いにきっと答えてくれるはずだ。俺は負けたわけじゃない。最後に勝つのは俺達だ」
今まで運命とともに歩んできたルードは、確固たる思いとともに答えた。
「負けるのはデルネア、あなただと知るべきだ!」
「なればルードよ。我は聖剣の力をもって、お前に返答するとしようぞ」
デルネアは聖剣を振り上げ、その刀身を力一杯地面に突きつけた。地面は大きく波を打ち、やがて亀裂が走る。
「聖剣所持者は二人といらぬ。我が聖剣を所持した今、聖剣にとってお前は厄介者に過ぎぬ」
すぐに亀裂はルードとライカの足下にまで及び――暗黒へと誘う口を大きく開けた。
「我の前から失せよ、ルードよ! 死してなお、貴様の魂は未来永劫落下し続け、暗黒の中でただ彷徨うのみ!」
ルードとライカは言葉を発するいとますら無く、二人の体は奥深く、漆黒の闇の中へと溶けていった――
「ああ!」
サイファの口から悲痛な声が漏れ、力を無くしたかのようにへたり込んだ。
サイファの声を聞きながらも〈帳〉は、一つの思いに束縛されていた。
(この場にいながら、私になすすべがないとは……!)
ぎりぎりと、自身の歯をきしませながら、〈帳〉はどうしようもない怒りと、悲しみ、やるせなさを感じていた。
聖剣はデルネアの手に落ちた。ルード達は奈落の底へと消え去り、もはや救う手だてはない。希望は、かくもあっけなく打ち砕かれたのだ。
あとに残るものは敗北であり、滅び。
〈帳〉は、自身の無力さを嫌というほど痛感した。フェル・アルム創造の折にクシュンラーナを救えなかったように、今また為すすべなくルードとライカを失ってしまった。
いつの間にか、隷達の攻撃は止んでいた。デルネアが目的を果たした今となっては、わざわざ〈帳〉達なぞに構うことなど無い、ということだろうか。
「我はついに、絶対なる“力”を手に入れたぞ! 我こそが至上の存在。全ての事象を支配し、形成し、物語るべき存在だ!」
デルネアは自身の存在を高らかに宣言した。
その時。