フェル・アルム刻記
「あると思うよ。魔物とは言っても、“魔族《レヒン・ザム》”のような、高い位にある連中じゃあ無さそうだし」とジル。
「もしくは“忌むべきもの《ゲル・ア・タインドゥ》”と言われる、“混沌”の創造物の中でも、きわめて力の薄いものどもか。ならば、我らに勝機は十分にある」
〈帳〉も言う。
サイファはうなずくと、烈火のいるところへ向かって歩き始めた。
「メナード殿。私はここに留まる。勝手かもしれないが、私は全てを見届けたいのだ」
「陛下……」
「さあ、避難民達もさぞ焦れていることだろう。……頼む」
そう言うと、再びサイファは歩き始めた。メナードは何やらサイファの背中に語りかけようとしていたが、思いとどまり、彼女の背中に深礼をして、きびすを返していった。
サイファは再びデルネアと対峙する位置にまで戻ってきた。ちらと彼の様子を窺うが、デルネアはうつむいたまま、まるで石にでもなったかのようにぴくりとも動こうとしない。隷達もそれにならうようにただ立ちすくんでいた。
その様子にやや不気味さをも感じたが、意を決し、サイファは高らかに声をあげた。
「烈火達よ、北方を見るがいい。一面に広がる黒い球こそ、忌まわしき魔物にほかならない。諸君らの敵はニーヴルにあらず、あれなる異形のものどもである! 烈火達よ、我が命に従い、あれらを撃破せよ!」
すると、それまで壁のように居並んでいた烈火達が呼応した。ルイエに対して臣下の礼を取ると、鎧を着込んでいるとはとうてい思えないほど迅速に、しかし地面を揺るがせながらも北へと向かっていった。
(ふう……)
サイファは、完全に開けた街道を見た。このまま西へと進めば、二、三日後には水の街サラムレへと辿り着くだろう。
西の空は虚ろな灰色を映している。青を失った空とはいえ、それすらもこの上空を染める、黒く渦巻く空の絶望感と較べれば、幾分か人々に安堵をもたらすものとなるだろう。
黒い雲がサラムレまで忌まわしい力を伸ばすのは、当分先のことになるようにサイファには思えた。このウェスティンの地が“混沌”に覆われるまでは。
「とりあえず、私の役目は無事に果たせた、というところか」
サイファは、短くなった黒髪を掻き上げながらつぶやいた。
「私に勇気を与えてくれたのは、間違いない……エヤード――父上にルミ……」
涙が自然とこぼれ出てくるのを止めずに、サイファは流れるにまかせた。
「ありがとう……」
* * *
西への移動を心待ちにしていた北方の民達は、メナード伯の指示を受け、一斉に、しかし決して乱れることなく動き始めた。今や避難民の数も膨れあがり、最北のダシュニーや、東方のカラファー出身の人々を含めると二万を数えようかというくらいまでになっていた。
「一緒になって歩いてた時はそんなに意識してたわけじゃあないけど……いつの間にかすごい人数になっていたんだな」
ルードは素直に言うほか無かった。
「ほら、地面が揺れてるみたいだぜ」
人々を先導しているメナード伯は、馬車から降りるとサイファと、そしてルード達に一礼した。
「陛下。大変心苦しいのですが、我々は先に失礼いたします」
「いや、私のほうこそわがままを言ってすまないな。私達は青い空を取り戻すべく、ここで最善を尽くす。心配せずとも、必ずそうしてみせる」
腫れた目のままサイファは微笑んだ。
「今は、烈火達が死力を尽くして魔物と戦っている。私達は、私達の戦いに打ち勝たなければならない」
「貴君らも気を付けて。運命が味方をしてくれることを祈っていますぞ」
ルード達はメナードと、それに続く避難民達を見送っていた。ひたすら進むのに必死な者、安堵の表情を浮かべる者、皆の気分を慰めるべく楽曲を披露する者、ルード達に礼を述べる者――十人十色であったが、彼らは足早にこの地を去っていった。
そして相も変わらずデルネアは、ぴくりとも動かずに人々をただやり過ごすのみ。
事実上の敗北を認めたのか? それとも――。
「ルード」
馴染み深い声に名を呼ばれたルードは笑みを漏らす。
「叔父さん……」
いつの間にか、ルードの周りを囲むように人垣が出来ていた。ナッシュの家族や、ケルン、シャンピオといったスティンの村人達。それに麓で顔馴染みの人々もそこにいた。彼らの表情に共通することは一つ。
「ありがとうよ。そして頑張んなよ!」
彼らの声を代弁するかのように、ケルンが前に出ると、やや荒っぽくルードの肩を叩いて励ました。ルードはケルンの肩越しに自分の家族の顔を見て取った。言わずとも分かっているかのように、お互い小さくうなずきあった。
目前に迫る運命の時に至って気が張っているとは言っても、ルードとて一介の少年であることに違いない。ルードは感情を抑えきれず家族のもとに駆けだした。
「ルード」
ニノは柔らかな手でルードの背中に手を伸ばした。頑固なディドルは、やはり黙って見つめている。
「こんなことになっちゃったけど、俺は俺なりにやり抜くよ」
ルードは声を震わせながらも、自信を持って言い切った。
「そして、叔父さんがまた羊を飼って暮らせるようにする」
「お前はどうするつもりなんだい?」とニノ。
「俺は……ライカを無事、故郷に帰してやる。ライカとの約束だから。それに、出来れば世界っていうのをこの目で見てみたいし。それに……」
ルードはちらりと従姉の顔を見た。
「後を継ぐとかいう話は……ごめん。今の俺には考えられなくなっちまってるみたいだ。でもケルンがいるから……」
「……え? な、なんでそこでケルンが出てくるのよ?」
ミューティースが訊いた。
「ん、ケルンから直接聞いたわけじゃあないけど、ご両人の雰囲気、かな?」
ルードは悪戯っ子のような表情を浮かべた。
「とにかく、俺がなんにも知らない、なんて思ってたら大間違いだぜ?」
「もう!」
彼女は顔を赤らめ、ばつが悪そうにそっぽを向いた。
「そっちこそ、せっかく可愛い娘をつかまえたんだから、大事にしなさいよね!」
「わ、分かってるってば!」
今度はルードが赤ら顔をする番だった。
こうしてルード達は、つかの間の談笑――日常の和やかさを心地よく感じつつ、余韻を残すようにして別れていった。
これが永久の別れでないことをお互い切に願いながらも。
* * *
全ての避難民達が立ち去るのに半刻ほどかかっただろうか。この間に“混沌”が襲いかかってこなかったのは、ひとえに幸運の賜物としか言いようがなかった。
そしてウェスティンの地には――ルード達と双子の使徒、そしてデルネアと彼の麾下たる隷のみが残った。北方では、烈火達が魔物達を相手に、熾烈な戦いを繰り広げている。
今や空は黒一色と化し、“混沌”の到来を今か今かと待ち望んでいるようだ。ルードが神経を集中させると、足下の大地がしきりにざわめいているのを感じ取った。“混沌”に蝕まれ、自然本来の姿を失いつつある大地のざわめき。それは土の民の力を受け継いだルードにとって、耐え難い悲鳴にすら聞こえるようだった。
「もう、時すでに長くはあるまい。我らはいよいよ全てに決着をつけるべきなのだ」
〈帳〉は空の様子を窺いつつ言った。
「デルネアよ」