フェル・アルム刻記
§ 第十章 終焉の時、来たりて 第二節
三. 窮地を脱して
「閣下!」
烈火達の動向がルイエの言葉によって一変し、事態が好転しつつあることを悟ったメナードは、後ろを振り返った。ディエルとともに後方の魔物と戦っていた戦士のうち数名とスティンの村人達、それと伯爵の部下達が走ってきたのだ。
「ディエル兄ちゃん!」
ジルは大手を振って迎える。
「おう。オレ達のほうは片づけといたぜ!」
ディエルは弟のもとに走り寄りつつ声をあげた。
「化け物どもはどうしたのだ? 皆は無事なのか?」
メナードの問いに答えるべく、部下のうちのひとりはひざまずくと、荒い呼吸をおさえつつ、一礼をして語り始めた。
「閣下。出現した化け物全てを討ち取りました。幸いにも――」
「伯爵さん。多分、あの場所から魔物が現れることはないと思う」
ディエルは、息を切らした部下の言葉を遮るように言った。
「怪我した人は結構いるみたいだけどな。……とは言っても軽い怪我だしさ、みんな大丈夫だと言えるよな」
「兄ちゃんは? 大丈夫だったのかい」
「はっ……」
ディエルはにやりと笑うと、さも嬉しそうに手でジルの頭をかき回す。
「オレがあんな魔物にやられると思ったのかよ? あんな連中だったら、片手でちょいっ! てもんさ」
「いててて……可愛い弟が兄の身を心配してやってるんだぞぉ! も少しいたわるとかいう気持ちはないの?」
ジルは頭を押さえ、兄の攻撃をかいくぐりながら言った。
じゃれ合う双子の使徒達を見ながら、メナード伯は満足そうにうなずいた。
「……みんな、よくやってくれた。どうやら、わしらの前に希望の一筋が現れたようだぞ。見てみろ」
彼は前方を見るようにと一同を促した。
「おお!」
旅商のシャンピオが感嘆を漏らした。北方の民をニーヴルの残党であると見なし、丸腰の民を無惨に蹴散らさんとしていた烈火の軍隊は、今や壁のごとくただ居並ぶのみ。しかもその壁は、街道を塞ぐのではなく、二手に分かれている。ついにサラムレへ伸びるルシェン街道は開かれたのだ。
「……ルードのやつ、いっちょう前にやるじゃあねえか」
シャンピオは、弟のように可愛がってきた少年のことを思い、満足げにほくそ笑んだ。
「あれはサイファ姉ちゃんのおかげだってば!」
ジルが不満げに声を漏らした。
「うむ」
メナード伯がうなずく。
「陛下のご英断無くば、わしらは中枢の騎士達によって蹂躙されていたことだろう。だがついに、わしらはこの忌まわしい空から抜け出せる。陛下のおかげだ。まこと、ありがたいことだ……」
メナード伯は片膝を落とし、臣下の礼を取った。当のドゥ・ルイエとはいささか距離が離れ過ぎてはいるが、感謝の気持ちをすぐにでも表したかったのだ。
「閣下、ご覧下さいまし」
側近のひとりが呼びかけた。
「陛下がお手を振ってらっしゃいます」
「陛下って……? え? どういうこと?」
シャンピオは要領を得ない様子で、メナードの顔を窺った。
メナードはシャンピオの顔をちらと見上げた。
「まあ、じきに分かることだろうから言ってしまうがな。サイファ殿こそがドゥ・ルイエ皇にほかならないのだ」
戦士や村人達がざわめくのを、伯爵はにやりと笑ってやり過ごす。
「よし! お前達はわしに続け。陛下のもとでご指示を仰ぐこととしよう」
メナードはすっくと立ち上がると、ルイエのもとへ参じるべく、その老体に似合わず足を早めた。
「お前達、何をしている! 早く来るのだ!」
叱責を浴びた側近達は伯爵に続き、足早に前方へ向かった。
「伯爵さん! 俺達はどうしたもんかね? こんな不気味な空とは早くおさらばしたいんだけれどさ」
シャンピオはたまらず、伯爵に呼びかけた。後ろに控えている避難民達がざわめきたち、今にも駆け出さんとしているのを感じ取っていたのだ。もし彼らのうちのひとりでもしびれを切らして飛び出してしまえば、その周りの者もすぐさま同様の行動をとるだろう。そしてそのまた周りの者も――というように波及していくのは明らかだ。このままではせっかく事なきを得ようとしているのに、それすら収拾がつかなくなってしまう。
「この異常な状態の中で待機している皆の気持ちはわしも痛いほどよう分かる。だがもうしばしだ。じきに皆でこの地を離れられるだろう!」
振り返るとメナードはそう答えて、再び足を早めた。
「頼みますよ!」
シャンピオはそう言うと、ほうっと息をついた。
「しかしサイファさんがねえ……これにはまいったわ」
彼は手を額に当てて、大げさに驚いてみせた。
「さあて、とりあえずは一難去った、てなところかね!」
戦いで萎縮した筋肉をほぐそうとしているディエルが、大きく伸びをしつつ言った。
「だけどさ、これからが難しいところだよね?」
ジルの言葉にディエルがうなずく。
「そうさ。“混沌”が少しずつこっちに来ているっての、オレには分かるからな。なんとかくい止める方法を考えないと、本当に終わりの時が来てしまうぜ……あれ?」
その時ディエルは、何かを感じ取ったのか、怪訝そうに周囲をきょろきょろと見渡しはじめた。
「それもあるけどさ、その前にデルネアだよ!」
兄の動作を気にせず、ジルは言った。
「デルネアってやつは簡単に屈するようなやつじゃないだろうからさ。これからは、聖剣を持ってるルードがどうするか、それにかかってるんだ……うん? 兄ちゃん、何してるのさ?」
ディエルは精神を集中するために目を閉じている。なんらかの力の所在を察知するために、常人には聴き取れない“音”を発しつつ自らの魔力を解放していく。
「……ここじゃないけど……魔物の気配を感じる! じきに魔物がわんさと出てくるぞ。それも、かなりの数らしいな」
“混沌”が近づいてるだけのことはある、とディエルは苦笑いを浮かべた。
「えっ?!」
ディエルの言葉に、その場に居合わせた人々はざわめいた。
「坊や、本当かい?」
「“坊や”っていうのはやめてくれってば! オレはディエルっていうんだ。大体こう見えたって、あんたより千年以上は長く生きてるんだぜ?」
ディエルは、そう言った戦士に対して口をとがらせた。
「……悪かったって。ほら、あんたも謝りなよ」
シャンピオは戦士に謝らせると、言葉を続けた。
「で、ディエル。化け物がまた出てくるっていうのは、本当なのかい?」
「そうだよ。オレ達がさっき戦った奴らよりも、もう少し手応えのある連中みたいだ。人間の手で倒せるだろうけど、この数じゃあ全然戦力にならないな」
「どれくらいの数が来るってんだ?」別の傭兵が訊いた。
「さっきのだってせいぜい三十体ってとこだろう? 今度はあれよりも強いやつらが、少なくっても百体や二百体……それくらい出てくるんじゃないかな?」
とディエル。
一同は黙した。先ほどの戦いでもそうとう苦戦を強いられていたというのに、それを凌ぐ化け物相手では、とても歯が立たない。
ディエルは前方の赤い〈壁〉をちらりと見た。
「そう……あれだ。あれに動いてもらわないと、とてもじゃないけど駄目なんじゃないかな?」