フェル・アルム刻記
ルイエの為したことに対して、ルード達は驚きの声をあげる。が、それ以上に驚いたのはデルネアであろう。彼は後ろを振り向いたままでその表情は読み取れないが、デルネアがあきらかに狼狽しているのが分かる。今まで軍を率いていたデルネアの命令に対し烈火が拒否した。これはデルネアにとって、まったく想像出来ないことであったに違いない。
「止まっただと?! 解せないことだ」
「デルネアよ。やはり貴公は増長しきっているようだな。烈火は私の配下に置かれている戦士達だぞ。ルイエたる我が命令を聞き入れるというのが当然のことだろう?」
「馬鹿な!」
デルネアは、まるで信じられない、という面もちのまま、顔を横に何度も振って、吐き捨てるように言った。
「烈火という戦士を形成したのも、何より今までの行軍を統率していたのも我だというのに、なぜ! なぜ我の命令が聞けぬのだ! 進軍せよ!」
しかしデルネアの言葉はまるで風のように流れて行くのみ。烈火の中で誰ひとりとして動こうとする者はいない。
烈火は、かつてデルネアが作りあげた中枢の精鋭戦士である。ドゥ・ルイエに絶対の忠誠を誓う戦士達。かつてのルイエ達は、デルネア自身の言葉を“神託”として受け入れていたのだが、今のルイエ――サイファ――は、違っていた。
王になる者は“ドゥ・ルイエ”の名を冠すると同時に、幼少の名を捨て去るのが通例だが、現ルイエは、王となった今でも幼少の名“サイファ”を併用している。それが、確固とした己というものを未だに持っている要因でもあったのだ。公の立場では国王『ルイエ』でありながらも、また『サイファ』というひとりの人間でもあるという認識。今までの王との違いがそこにあった。
そして、そのことをデルエアは見抜けなかった。
「我は絶対なる存在! 信じられるものか! 我を差し置いて、ルイエごとき命令を聞くなど!」
デルネアは、自分自身の拳を力任せに地面に叩き付けた。ごうんという鈍い音とともに、デルネアの目の前の地面に亀裂が走り、ルード達の足下にまで伸びていった。
ルードは亀裂を避けて飛び越すと、ルイエの横まで来た。
「世界を全部ひとりで操れるなんてことは、出来ないと思う」
うつむいたデルネアに対し、ルードは諭すように言った。
「フェル・アルムは、確かにあなたが創った世界かもしれない。けど俺達は、その創られた世界の中で俺達なりに生活しているんだ。あなたが介在しなくっても、ちゃんとやっていける」
その時、石のように動かない烈火達の中から、数名の者が走り抜けてきた。全身黒ずくめの装束をまとった彼らに、ルイエは不安を覚えた。デルネアの側近であろうが、宮中でも見かけたことなどない者達だ。
「あれは隷だ。存在を知られぬように、ひそかに宮中に住まう者達。デルネア麾下の参謀であり術使い、と言おうか。剣の腕は持たぬがな」
〈帳〉が言った。
「なるほど。少なくとも彼らだけは、デルネアに忠誠を誓うのかもしれん」
隷達はデルネアの周囲を取り囲むと、術の詠唱に入ろうとした。が、デルネアに制止された。
「やめおけ。貴様らの魔力では〈帳〉にうち消される。もっとも〈帳〉よ。“礎の操者”と冠されていたお前も、今となってはそれだけの力しか持ち得ていないのだがな」
〈帳〉は否定しなかった。
「しかし、我に従う者がこれだけしかおらぬ、とは。二千の烈火は結局動かぬのか、ふん……」
デルネアは自嘲するかのように笑った。
* * *
「ルード」
ルイエは小声でルードに話した。
「土が腐り始めている。黒い雲の影響がすでに顕著に出てるようだ。何より避難民達の中にはクロンの悪夢から逃げてきた人もいるのだから、このような場所から一刻も早く立ち去りたいに違いないだろう? ――避難民だけでも、先にサラムレに行かせてやりたいと思うのだけれど?」
「もちろんそうしたほうがいい、とは思うんだけれどな」
ルードも賛成した。
「だけど……それが出来る?」
「やってみるしかないだろう? 必ず烈火を動かしてみせる。まあ、それは私の役目だからね」
ルイエはルードに笑いかけると、次の瞬間には毅然とした表情に戻り、再びデルネアと対峙した。
デルネアの発する闘気は相変わらず圧倒的なものである。
が、ルイエはあえてその闘気を真っ向から受けた。ルイエ自身の為すべきこと。その大筋はすでに終わったとはいえ、あくまでデルネアに対しては、戦いの勝者として正々堂々と渡り合わねばならない。その思いこそが、ドゥ・ルイエ皇としての風格に繋がるということを、当のルイエは知ってか知らずか。ルイエは毅然とした口調でデルネアに話しかけた。
「物事は全て貴公の思うがままに進むわけではないということ、その身をもって知ったであろう、デルネアよ!」
「……小娘が。お前が今のドゥ・ルイエたる立場にあるというのも、全て我《われ》が計らったことだというのに刃向かうとは……身のほどを知れ!」
デルネアの闘気が膨れあがり、ルイエに襲いかかった。
「うああっ!」
かたちを持たないその力は容赦なくルイエを痛めつける。ルイエは両の手で自らを抱きしめるかのように、自分自身を守ろうとするが、ついにこらえきれずにどう、と倒れた。
「サイファ!」
ライカは思わずルイエのそばに駆け寄り、彼女を抱き寄せた。幸い、傷は浅いようだ。
「しっかり」
「ライカ……ありがとう。大丈夫よ」
ライカの肩を借りたルイエは、やや顔をしかめながらもすっくと立ち上がった。
「我、ドゥ・ルイエの名において、烈火に命ずる! 貴君らの敵はニーヴルにあらず! この地に現れている化け物を押さえ込むことこそ烈火の使命と知れ! まずは道をあけ、北方の避難民を通してやるのだ。そのあとで、臨戦態勢に移れ。繰り返すが敵はニーヴルではない! これは勅命である!」
勅命を受けた烈火達は、即座に二つに分かれていく。騎士達の列の間から、サラムレへと続くルシェン街道が現れた。
今、街道の封鎖は解けたのだ。
「貴様……! あくまで神託に背くか」
デルネアは後方で道を空ける烈火達の様子を苦々しく見つめるほか無かった。
「神君ユクツェルノイレなど実在しないことを、私は〈帳〉殿から聞いた。今まで神の役を演じていたのが貴公である、ということも」
ルイエは続けて言った。
「デルネア。黒い雲が近づいている。避難民を通してやってくれぬか」
「……ふん」
毅然とした眼差しと、鋭い眼光。ルイエとデルネアはお互いの視線を交錯させるように対峙する。今度はデルネアも力ずくで押さなかった。国の君主と、世界の君臨者の間には、目に見えない何かが交錯しあっているかのようであり、両者一歩も引く構えを見せない。それは静かなる戦いであった。
長い沈黙が周囲を包んだ。
が。
「……通るがいい」
ついに、デルネアは重々しく言った。デルネアの思惑の一端が、音を立てるかように大きく崩れ去った瞬間であった。