フェル・アルム刻記
[ハーン。タール弾きのティアー・ハーンだよ]
……ハーン……
確かめるような口調でライカが声を出す。
[へえ。可愛い子だねえ、ルード以外にはちょっと恥ずかしがり屋さんなのかな、君の恋人は]
喉でくっくっと笑い、ルードを再度揶揄するハーン。
[……だからそうじゃないっての……。ああ、それであなたはずっとここにいたのかい?]
[……あらら、話題を切り換えされちゃったなぁ、まあいいや。ええとね、そうでもないんだ。ダシュニーとカラファーの間で隊商の護衛の仕事が二回入って、三週間ばかり留守にしていてね。やっと昨日帰って来たばかりなんだよ]
[そうか、いや、よかったよ、帰って来てくれててさ]
ルードが言う。
[……で、僕に何か話があるのかい? わざわざこんな遠くまで来るほどの――]
その時、奥の扉が開き、口髭をたくわえ、がっしりとした体格の中年の男性が顔を見せた。
ハーンはにっこり笑うとその男性に声をかけた。
[やあ親父さん。こちらは僕の友達だよ。わざわざスティンの高原から来てくれたんだ。夕飯でも作ってあげてよ。何か食べたかい?]
[え、いや。何も……]
[そう。……じゃあ親父さん、この二人にしっかりとしたものを食べさせてあげてよ!]
ハーンが宿の主人にそう頼むと、主人はルードをじっと見て言った。
[ハーンの友達か。しかもわざわざ遠いところからなあ。よりをかけてたっぷりとご馳走してあげらあ。心配するこたないよ、どうせ金はやつ持ちなんだからな!]
主人は豪快に笑い、再び奥へ消えていった。
[……この町にいる時はさ、ここが家代わりみたいなもんでねえ。三年くらい住み込んでるんだ。あの人はここの主人で、ナスタデンっていうんだ。戦士みたいにいかつい身体をしてるけど、根は優しくていい人さ]
[……食事、いいのかい? 悪いねぇ]
ルードは少しばつが悪そうに言う。
[いいっていいって、久しぶりに会えたんだし。……で、僕に何か言いたいことがあるのかい?]
[う、うん。そうだなあ]
ルードは言葉を切ると白塗りの天井を仰ぎ、考えをまとめようとする。出来事の何もかも突拍子がないので、どうやって話したらいいか迷うのだ。ルードはとりあえず、ライカを紹介することにした。
[ライカ、ね……。はじめまして、ライカ]
ハーンがそう挨拶すると、ライカは会釈した。
[……ふむぅ。まあ、駆け落ちっていうのは冗談としてもだよ、やっぱり何かわけありなんだね? ルード君]
[そう。俺自身がまだ信じられないし、ハーンにも分かってもらえるかどうか分かんないけどね。……彼女と――ライカと出会った時のことから話すよ]
ルードは今までのことをハーンに語った。ハーンはそれに聞き入り、時々うなずいた。
出会った時のこと、なぜか北の平野にいたこと、謎に包まれたライカ自身のことなど、ルードの体験を余すところなく明らかにした。
話の途中、鴨の入ったシチュー、ボイルされた鴨や野菜、パンなどが出来たというので、小さな食堂に移動したルード達は、それらに舌鼓を打ちながらも話を続けた。ルードの正面に座ったハーンは、それに真剣に聞き入っていた。話が終わる頃には、日がとっぷりと暮れてしまっていた。
[……そうかあ……]
全てを聞いたハーンはひとりうなずいた。
[……分かってくれるかな? 信じられないかもしれないけど、でもそうして俺とライカは今、ここにいるんだ]
ルードは訴えるような目でハーンを見る。ハーンはルードを見ているようで実は見ていないようだ。何かに思いを馳せるように、遠い目つきをしているのが分かった。
[……ああ、そうだね、確かに普通に考えたらこんなこと、にわかに信じがたいけど、そんな不思議なことがあってもおかしくはないかもしれない。……いや、ともかく君達がここにいるのはまぎれもない事実なんだから、事実を事実として受け止めなくっちゃいけないんだよなあ……]
ハーンの言葉は途中からひとり言のようになった。ハーンは少しの間、考えに耽っていたようだが、やがていつもの口調でルードに話しかけた。
[そうだね、まず、ルードとライカは高原に戻んなきゃあね。それに、ひょっとしたら――剣が必要な状況にすらなるかもしれない。だから僕もついて行こう]
[本当に!? ありがとう、そいつは助かる!]
破顔するルード。
[何が起こるか、これは本当に分からないぞ。……あの時のように――]
そこまで言ってハーンは言葉を切る。
ルードは訝しがった。ハーンは今、何を言わんとしたのだろうか?
[今晩はここに泊まっていきなさい。明日出発しよう!]
ハーンは話を打ち切ろうと威勢のいい声を出す。
[え? でも、見張りの塔の衛兵さんが、控え室に泊まっていいって……それにハーンに悪いんじゃあないか?]
[構うことないってば。詰め所より、こっちのほうが過ごしやすいよ。それにルードの服も汚れてるようだから、洗って僕のを着るといい。暖炉に置いておけば一夜で乾くさ]
[そう……何から何までありがとう。でも宿泊代は……]
[ああ、僕が払っとくよ]
ハーンはさらりと言ってのける。
[じゃあ、村に着いたら返すから……]
[いいよ、いいよ、興味深い話を聞かせてくれたお礼とでも思ってちょうだいな]
ハーンはあくまで自分を訪ねてくれたルードを歓迎する意向らしい。ルードはハーンの心遣いに感謝した。さらに塔の衛兵のほうにはナスタデンが連絡をつけてくれたそうで、なおのこと感謝の念を深くした。
ナスタデン夫人がルードとライカ、それぞれの部屋に案内した。ルードが通された部屋は小さかったが、奇麗に整頓されていて、木で作られた調度品は部屋に調和していた。彼はしばらくの間、心地の良いふかふかするベッドで横になっていたが、まだ眠くも無く、さりとて特別何かをするということも無いので、そのうち退屈になってきた。
そんな時、タールの音色がルードの耳に届いてきた。ルードは起き上がり、入り口の広間のほうへ行こうと部屋の扉を開けた。向かいはライカの部屋だ。ルードが廊下に出た時、ライカも扉の隙間からちょこんと顔を見せた。
[ライカも退屈かい? ハーンがタールを弾いてるみたいだから聴きに行かないか?]
と身振りを交えてライカを誘った。ライカに意図が伝わったらしく、彼女はルードについてきた。
ハーンはルードが宿に入ってきた時と同様、ソファーに座ってタールを鳴らしており、二人の客人が音に耳を傾けていた。扉を開けて入ってきたルード達の姿を確認するとハーンはにこりと笑い、またタールの弦を見つめた。一つの楽器から鳴っているとは思えないほど、彼のタールは深い音を出す。ハーンの演奏は穏やかに流れ、それが激しいものに転調し、時には暖かく、また寂しい音を奏でる。それは一大叙事詩のごとくであり、広間にいる人々はその旋律に身を委ねた。
ルードとライカは、ハーンとは別のソファーに腰を下ろし、一刻後、ハーンが演奏を止めるまでタールの調べに聞き惚れるのだった。