フェル・アルム刻記
三.
クロンの宿りの入り口には、石造りの監視塔が立てられており、不審者の侵入を防いでいる。ここにルード達が辿り着いたのは、太陽が少し西に傾き始めた頃だった。
相変わらず彼らは一言も言葉を交わさなかったが、二人はようやく安堵の表情を浮かべ、お互いを見て少し笑いあった。だが同時に彼らはへとへとに疲れ果てていた。少女はすでに息切れしている状態だったし、ルードはムニケス登山からずっと歩きっぱなしであったため、すこしでも気を許すと倒れてしまいそうだった。
そんな二人の様子を見ていた塔の衛兵は、ルード達が塔の前に着くなり歩み寄って来た。
[なあおい、大丈夫か?! 随分と長いこと歩いて来たように見受けられるが……]
中背で鬚面の衛兵がルードに話しかける。
[……え、……ああ、そうなんですよぉ……]
気がゆるんだルードはふっと意識を無くし、倒れかけた。衛兵は慌てて彼を受け止めると、ルードの肩を担いで塔の中へと誘導した。
* * *
(……)
(……ここはどこなんだろう。わたしが知らない場所……)
(なんでこんなところにいるの? 確かに崖から――)
(それに、この人は……誰?)
聞こえてくる声は夢の中の声か。夢うつつにそう思いながら、ルードは目を覚ました。彼は衛兵に運ばれ、控え室のベッドに寝かされていた。長いこと眠っていたようにも感じられたが、実際にはそうではなく、石造りの窓から差し込む陽光から察するところまだ夕方前であった。 ふと横を見ると、あの少女がルードと同じようにベッドに横になっていた。今し方目を覚ましたところなのだろう、彼女は少々眠そうな目でルードの顔を見返した。
(この人……どんな人なんだろう? わたしを助けてくれた……とりあえず悪い人じゃあなさそうね)
ルードは確かにそう聞いた。だがそれは言葉としてではなく、頭の中に直接響いてきたのだ。今し方、夢を見ていた彼に聞こえて来た声と同じ、澄んだ可憐な少女の声。ルードはむくりと上半身を起こすと恐る恐る少女に声をかける。
[今……君が言ったのか?]
少女は横になったまま、目をしばたかせると不思議そうな表情を浮かべ、ルードを見つめる。
(まさか、この人に聞こえたの?! ……でも、この人は何を言ってるの? 言葉が全然分からないなんて……)
ルードの頭の中に再び〈声〉が響いてきた。
[俺が何を言っているのかが分からない、ってことかい?]
ルードは再び尋ね返す。だが、いくら待っても〈内なる声〉は聞こえてこなかった。
[俺はルード、ルード・テルタージっていうんだ]
ルードは右の掌で自分の胸を何回か軽く叩き、自らを彼女に訴えた。
少女は身を起こし、ルードのほうを向いてベッドに腰掛けた。そしてゆっくり人差し指を彼に向け、小さな唇を開いた。
……ルード?
その言葉を聞き、ルードは微笑み、[そう、俺はルードだ]と答えた。[君は? 何ていうのかな?]
ルードは彼女に指を向けた。それを見た少女は掌で胸をそっと押さえ、それからルードに聞き返すような表情をした。何を意味するのかが分かったルードは、小さくうなずいた。
[そう。君の名だよ]
……ライカ……。ライカ・シートゥレイ……
少女はやや小さな声でルードに名乗った。
[……ライカ……か]
ライカと名乗った少女は、小さく首を縦に振った。
[ねえライカ、俺の言ってることは、やっぱり分からないか?]
そう言っても、ライカはきょとんとした顔でルードを見ているだけだ。小さく息をつくとルードはベッドから起き上がり、背伸びをしてベッドに腰掛けた。
[……そっか。まあ、いいや。さっきみたいに何かの拍子に話しが出来るかもしれないしな!]
[おっ、二人とも、目が覚めたか!]
ルードが振り向くと、若い兵士が扉の縁《ふち》に立っていた。
* * *
部屋を出た後、ルード達は彼らを最初に介抱した中年の衛兵にいくつか質問された。ルードは自分達の身に起きた不思議な出来事は伏せつつ、衛兵に答えた。彼ら衛兵が警戒しているのは野盗や密売人といった類の連中である。だが衛兵にとってルード達はとてもそんなふうには見えなかった。
ベクトと名乗った若い衛兵が、ルード達の寝ていた一室を今晩の宿として提供してもよい、と言ってくれたので、ルードはその申し出に感謝し、一晩ここで泊まることにした。ベクトから聞くところ、ルードがムニケスに登ってからすでに一日が経過している、ということも分かった。
ルードとライカは塔を後にし、宿と商店が建ち並ぶ町の中へ入っていった。夕方ということもあり人の往来が多く、町はこみごみとした様相を呈している。
ルードは、祭りの時スティンの村に滞在していたタール弾きの戦士、ティアー・ハーンを探すことを思いついた。すでに見知っているハーンになら、彼は全てを話せると思った。それにひょっとしたらハーンは自分達を助けてくれるかもしれない、と期待したのだ。
塔にいた若い衛兵がハーンの名を知っており、もし彼がクロンの宿りに戻っているなら、夕方頃は町の西のほうの広場でタールを弾いているはずだ、と教えてくれた。
ハーンがここにまだ滞在していることを祈りつつも、ルード達は広場へと向かった。町のあちこちから夕方の喧騒が聞こえてくる。そんな中、タールの確かな旋律がルードの耳に入ってきた。音色は、藤の蔓《つる》が絡んだアーチの向こう側、煉瓦《れんが》造りの小ぢんまりとした建物から聞こえてくるようだった。
そこは赤い煉瓦に相反するように〈緑の浜〉という看板の掲げられた小さな宿屋だ。ルードは分厚い木の扉を開けた。
玄関は休憩所を兼ねていた。落ち着いた趣のあるその空間にはソファーが二つ置かれている。庶民的でありながらも品がよく、居心地のよさそうな宿だ。
そしてソファーに深く腰掛けてタールを弾いている、長身の青年の姿があった。ティアー・ハーンである。ハーンはうつむき、例の大きなタールを見つめながらつま弾いていたので、ルード達に最初は気付かなかった。しかし演奏に一段落がつくとおもむろに顔を上げ、ルードの姿を認めて笑みを浮かべた。彼はタールをソファーに置いて立ち上がった。
[あれ? ……えーと、君は確か……ルードかい?]
[久しぶり、ハーン!]
ルードは安堵の笑みを隠せなかった。ルードはハーンとの再会を祝って握手を交わした。そしてハーンは、扉のところでたたずんでいる少女に気付いたようだ。
[ここまで来るなんてどうしたのさ? スティンからかなりあるのに……まさか、あの娘と駆け落ち、とか?]
ハーンは小声で揶揄《やゆ》した。
[ちっ、違うってば! ……と、とにかく! あなたがいてくれてよかったよ]
少々動揺するルードを見てハーンは微笑すると、彼らにソファーに座るよう促した。ライカもルードの手振りで招かれ、ルードの隣に、ハーンから隠れるように座った。
[大丈夫だって、ハーンは信じてもいい人だよ]
ルードは落ち着いて話し、ライカの警戒心を解こうとした。ライカに意思が通じたのか、ハーンに軽くお辞儀をする。
[ああ、どうもこんにちは。僕はこのとおり――]
ハーンは右腕で抱えているタールを鳴らしてみせる。