フェル・アルム刻記
一. 対峙する者達
〈帳〉は、デルネアと真っ向から対峙し足を止めた。
ルードは、まるで引き寄せられるかのようにデルネアを見つめていた。
デルネア。かつては、“混沌”に魅入られたレオズスをうち倒し、そしてフェル・アルムを創造した人物のひとり。それからの六百年余、フェル・アルムを影で操っていたとされる人物が今、目の前に立っているのだ。
フェル・アルムの全てをその一身につかみ、世界の全てを知る唯一の者。全てを見きわめんとするかのような鋭い眼光。不敵な笑み。引き締まった巨躯。そして腰に差す蒼白く輝く剣。彼を見るだけで気圧されるかのようだ。
烈火のみならず、この場に居合わせている全ての者を威圧するかのような凄まじい重圧感を、ただひとりの人間が持ち得ているのだ。歴史を影で操ってきた者だけが持つであろう独特の陰惨さと冷酷さ、そして気位の高さをルードは感じた。
「――この一件、やはりお前が絡んでいたか、〈帳〉よ。まあ、お前のことだ、そうであろうとは思っていたがな」
低く、しかしよく通るデルネアの声は、まるで引き寄せられるかのような心地よさと威厳を併せ持っていた。声そのものが魔力をおびているかのようだ。
「そしてお前の籠絡《ろうらく》に見事引っかかったのがこの面々か……」
デルネアはそう言い、〈帳〉の背後に控える面々を一瞥した。
〈帳〉のそばに控えているのは、ルードとライカ。双子の使徒とサイファは、後方で成り行きを見守っている。
「デルネアよ、私はけっして、この者達を籠絡にかけたわけではないぞ」
デルネアの放つ重圧に抗い、強い意志を持って〈帳〉は言葉を返した。
「彼ら自身が自分達の運命を切り開こうとして選んだ道だ。私はあくまで助言をしたのみ」
デルネアは鼻で笑った。
「それこそ姑息だ。全てが我の思うままに動いていればよかったのだ。そうすればひずみなど生まれる要因がない。そう、このような事態など起きはしなかっただろうに……見ろ!」
デルネアが示したのは黒い空。濁流のごとく押し迫りつつあるそれは、すでにスティンの丘陵すらも覆い隠し、なおも浸食を進めている。ほどなく、ここウェスティンの地も黒い空に覆われるだろう。
「あれに飲まれたのならば、全てが無くなるのだ。世界の破滅。それだけは避けなければならない。我がここで待っていたのは、“混沌”を無くすためであり、真の理想郷をもたらすため。〈帳〉よ、お前には用なぞ無い」
その言葉を聞いて〈帳〉は眉をひそめた。
「貴公になくとも、私にはあるのだ! デルネアよ!」
〈帳〉は凛とした声をあたりに響かせた。
「貴方とこうして対峙するのも十三年ぶり……か。あの時はトゥールマキオの大樹の中で話したものだったな。私が言ったとおり、ひずみはここまで大きくなってしまったのだ」
「『我を取り巻く大いなる流れは変わらぬ。全ては掌中に収まっている』――こう我は言ったものだな」
デルネアは懐かしむかのように語った。
「あの時の貴公は、個々の人々の思いをまったく軽んじていたように聞こえたのだが……こうして“混沌”を目の当たりにして、その思いは変わったのか?」
「否」デルネアは言い切った。
「たしかに、“混沌”の流入なぞは我にすら考えが及ばなかったものの、全ての流れは我がもとにある。それは変わらぬものだ、永久にな」
「デルネア、貴方の目は曇ったのか。それは増長と言うものだ」
落胆する思いを隠しもせず〈帳〉は言い放った。
「世界が終わろうとしている、今この時になってすら、貴方には物事が見えていないのか? ならば単刀直入に私の思いを告げよう。フェル・アルムを――貴方が創造したこの閉じた世界を、アリューザ・ガルドに還元するすべを教えてほしいのだ! そうすれば、全ての呪縛から解き放たれる。あの黒い雲が、“混沌”がこの地を覆う前に、我らが術を行使せねば、その時こそ終焉が訪れるのだぞ!」
「術を行使する、だと? 笑止な。力を失ったお前なぞに何が出来ようか? 今のお前ごときでは、我に相対することすら不相応というものだぞ。貴様の魔力など、我の前にあっては無力に等しい。〈帳〉、今の貴様は夜露をしのぐのがせいぜいの天幕に過ぎぬことを知れ」
デルネアは冷静に語った。
「たしかに我は知っているとも。還元するすべをな。だが、我の創った世界を、なぜにむざむざ放棄せねばならないというのだ? アリューザ・ガルドへの還元など、させん。今さら貴様らがあがいたところで遅過ぎるというものだ」
「しかし、この期に及んで滅びの時を待つようなことこそ、愚かしい行為だと思わないのか?」
「滅び? 我がそれを望んでいるとでも? 痴れ言を!」
デルネアは首を左右に振った。
「まったくもって――貴様の考えこそまさに愚の骨頂よ! 我が滅びを欲しているとでも思っているのか? 愚かな……まこと愚かな! 我の思うところはただ一つ、このフェル・アルムに恒久の平穏を与えることだ。世界を滅ぼすなど、考えもしなかったわ」
デルネアはきっと〈帳〉を見据えて言い放った。
「我は“力”を得るのだ。そのためにここで待っていたのだ。“力”を持つ者の到来をな。絶対的な“力”を手に入れれば、“混沌”のかけらなど、造作もなく次元の彼方に追いやってくれようぞ!」
「この世界の神にでもなろうというのか?」
「全てを超越し、調停出来る存在をそう呼ぶのであれば、我は神になることを望んでいるのだろうな。だがこうして“混沌”を目の当たりにしている今、我はお前などと戯れる時間すら惜しいのだ。――そこの少年よ、来い」
* * *
デルネアが呼んでいるのが自分のことだと気付いた時、ルードは胸が張り裂けそうになった。自身がこの場所に立っていることすら信じがたいかのような、奇妙な感覚にとらわれた。
デルネアが満足げにほくそ笑み、小さくうなずく。
「そうだ。お前だ。“力”を持つ者よ。お前の到来を我は待っていたのだ……さあ、我の前まで来い」
デルネアの声を受け、一歩また一歩と足が進むのはルード自身分かっていた、しかし自分の意志によるものなのかは分からなかった。ルードは〈帳〉の真横まで歩くと、ちらと〈帳〉を見た。
「心せよ、ルード。彼の“力”は強大だぞ」
〈帳〉の言葉にルードは小さくうなずいた。
「さて、名を訊こうか」
デルネアは一歩歩み寄ると、ルードに話しかけてきた。ルードは表情をこわばらせたまま、黙して語らない。
「ルー……ド」
喉から絞り出すようにして、ようやくルードは声を出した。
「ルード、か。……我のことは、〈帳〉より聞いておろう?」
ルードはうなずいた。
「そう。我こそがデルネアだ。この世界の全てを把握せし者。だからこそ我には分かるのだ。お前が強大な“力”を有している、ということをな」
デルネアは視線を下方に移し、ルードの下げている剣を見つめた。