フェル・アルム刻記
§ 第十章 終焉の時、来たりて 第一節
朝。
しかし、色すら失って灰色一色となったこの空には、陽の光などすでに無い。“薄明るい”としか言い表すことの出来ない曖昧な色彩のみが、かろうじて朝の到来を告げるものとなっている。
フェル・アルム北方に存在するは黒い空。そこは“混沌”の支配に置かれた忌まわしい領域。
今朝になってその浸食はさらに進んでおり、スティン周辺はもはや“混沌”の配下にあった。黒い空は相も変わらず、空の中で渦を巻くがごとくに禍々しくも動的にうごめいており、少しずつ、だが確実に灰色の空を侵しつつある。微弱ではあるものの、魔物の気配すら感じられるようだ。ほど遠くない時に、魔物が襲来するに違いない。
色を失った空と、かたや“混沌”に覆われた空。超常的なその色合いは、人々に絶望しか与えない。
終末を迎える世界はこのような空模様となるものなのだろうか。世界の終末などはアリューザ・ガルドを創造したアリュゼル神族でさえ思いもしないことだ。だが、世界の終末を表す空は今、明らかに現前しているのだ。ここ、閉ざされたフェル・アルムの世界において。
ルード達はいよいよ歩を進めていく。
ウェスティンの地は、空気そのものに質量があるかのような重々しい雰囲気に包まれている。
ルード達の前方に、深紅の壁が行く手を阻んでいるのが見えるようになった。それは二千からなる烈火。名が示すとおり、赤い鎧に身を包んだ最強の騎士達は、身じろぎせずに仁王立ちをしているかのようだ。烈火の掲げる聖獣カフナーワウの旗が見えたあたりのところで、北部の住民達は歩みを止めた。先行しているルード達も足を止め、黙したまま前方の烈火の隊列と対峙する。
中央に陣取っているのは騎馬部隊。おそらくはかの烈火においても精鋭中の精鋭であろう。そして両翼には剣をおろし、臨戦態勢を取っている騎士達が多数控えている。自分達と烈火との隔たりはもはや三フィーレもないだろう。もし、烈火が戦闘態勢に入ったとしたら――
〈帳〉の魔導や、聖剣の“力”を持ってしても多勢に無勢。ルード達は抵抗出来たとしても、丸腰同然の北部の民に勝ち目などとうていあり得ない。
烈火達は、いや、デルネアは待っていたのだ。ルード達の到来を。そして、ウェスティンの地を舞台に選んだというのも、デルネアの計らいか。それは、世界の運命をこの地にて決めるという意志。
* * *
一陣の風が、ウェスティンの地を吹き抜ける。それには涼しさも、心地よさもみじんに感じられない。闘気をはらんだ風は、重苦しい空気を追いはらうのではなく、さらに凝り固めていく。戦いを予感させる空気は重々しく、周囲を覆い尽くしていく。
フェル・アルムの運命は全てこの地に集まった。それがどのような結末を迎えるのか、誰にも分からない。
ただ一つ確かなことは、このままでは世界の秩序は全て崩壊し、“混沌”の名のもとに終焉を迎えるということ。滅びは、全ての者にとって望むところではない。聖剣の“力”か、デルネアの野心か、どちらかが“混沌”を消し去らないとならないのだ。一刻も早く。何より黒い雲はこうしている今ですら、着実に世界を侵しているのだから。
そして――
すうっと、深紅の壁の中央が分かたれたかと思うと、男がひとり、前に歩み出てきた。彼は躊躇うことなく、供もつけずにただひとりでこちらに向かって来ている。
その男の装いは烈火とは明らかに違う。巨躯ではあるものの、服装など、およそ市井の若者と変わらない。腰に差す剣が強大な力を有していることを除いては。
ルードは、彼の内包する異様なまでの“力”を感じ取っていた。そして確信した。
(あれがデルネアか!)
「デルネア……」
〈帳〉の声色は、彼の複雑な思いを表しているかのように、微妙に震えていた。
「……まずは私が話をする。ルードよ、君の出番はそのあとになるだろう」
ルードはうなずいた。
「出番がないことを願いたいですけどね」
「デルネアの野心がどのようなものなのか、それ次第だ。そして心せよ。あの者の声は、龍の言葉のごとくに引き寄せられるものなのだから。挫かれずに、自身を強く保て」
〈帳〉はそう言い残し、つと、前に出ていった。
デルネアと〈帳〉。
アリューザ・ガルドにおいて、“混沌”に魅入られたレオズスをともに倒した、かつての戦友同士。
フェル・アルム創造後には、かたや影の支配者として、かたや隠遁した賢者として正反対の生き方を送っていた。
十三年前のニーヴルの事件以来、両者は再び相対する。
そして――。