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フェル・アルム刻記

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三.

 つかの間、奇妙な浮遊感に全身を委ねていたサイファだが、気がつくと再びフェル・アルムの地面に足をつけていた。
 辿り着いたのは小さな山麓の村。サイファ達の立っている場所がどうやら村の中心地らしいようで、織物の工房が軒を連ねている。何という名の村なのだろうか、そう思う間もなく、サイファは突進してくる人を避けきれず、どん、とぶつかり、勢いよく跳ね飛ばされた。
「あんた、こんなとこで何をぼさっとしてんだよ?! 死にてえのか!」
 浴びせかけられたのは怒声。見ると向こうからは、人が波をつくるように後から後から押し寄せて来ているではないか。人々は、我先にと言わんばかりに急ぎ足で、ある者は周囲を蹴散らさんばかりに、必死の形相をして先を急いでいる。そのあまりの人の数に、もうもうと土煙が舞い、大地も揺れていた。

 サイファは状況がつかめないまま、ジルの手を引き、人並みをかき分け横切っていった。疲労困憊となった身にはたいそう堪える。サイファは大きく息をつくと、周囲を見渡した。
 必死の形相をした人々の波は、とぎれることなく続いている。普段は閑静であろう田舎のたたずまいは、怒声や悲鳴、子供達の泣き声で溢れているのだ。
 サイファは、そんな人々がやって来ている方角を見た。
「なんだ?! あれは!」
 “混沌”を象徴する忌まわしい黒い雲が、動的にうねりながらも徐々にこちらの方向へと向かってきている。灰色に覆われた曖昧な空と、黒い雲との境界を見たサイファは、人智を越えたこの世ならざるものをかいま見た気がして、本能的な恐怖を覚えたのだった。
「見ろ! 化けもんがでてくるぞ!」
 人々のざわめきは突如、恐怖を表す悲鳴と化した。元々は木々が林立するはずの風景がいびつに歪曲したかと思うと、そこから異形の魔物が数体出現したのだ。辺り一面に臭気が立ちこめる。魔物達はためらうことなく、恐慌する人々目がけて、おのが持つおぞましい複数の口を開けて突進していく。
 運悪く、この場所には戦士がいない。人々は迫り来る脅威を前にしてなすすべがないのだ。血で血を洗うような惨劇が始まるのか――サイファはそう絶望した。
 が、その時。
「“混沌”の先兵か!」
 言いつつジルは駆けだした。彼は空間を渡って魔物の前で姿を現した。異形のもの達を前にして臆することなく、ジルは両腕を大きく――円を描くようにして――振りかざす。
 空に描かれた円は、すぐさま具象化した。薄ぼんやりと輝く円鏡のようなその円は、膜のように広がると、目の前の魔物達を包み込み、それらとともに忽然と消え失せた。

 目の前の脅威が突然いなくなったことに呆然となっていたサイファだが、ようやく気を取り直した。
「これ……は、この化け物達は、一体?」
「“混沌”が押し寄せてきている。こいつらはその先兵どもさ。おいらにはやっつける力がないから、こいつらがもといた空間に押し戻してやったんだけどね」
 ジルはことも無げに言った。
「おいらが南のほうでのうのうとしてる間に、この世界は凄いことになっちゃってたみたいだね! このままだとこの世界が、フェル・アルムが終わっちゃうよ!」
「世界が滅びる、というのか」
 終末。それは常識ではとても考えられなかったことであり、一ヶ月前のサイファであったとしても、そんな概念など到底受け入れることは出来なかっただろう。
 しかし今のサイファは、そんな信じがたい情景を身をもって体験しているのだ。蒼い色を失った空を見た時点で、サイファは世界の崩壊を予感していたのだが、それがにわかに現実味をおびてきた。二人の人間の死を悲しんでいるのもサイファ自身だが、多くの人々が憂えているのを見過ごせないのもサイファ自身である。
(私はサイファであり、それと同時に、やっぱりルイエでもあるのだな)
 逃げ惑う人々を目の当たりにし、サイファは自分自身を再認識した。
「ジル、どうすればいい!?」
 友を失った悲しみと、今直面している憂いを吹き消そうと思ったのか、その声は不自然に大きくなり、凛としてあたりに響いた。
「とりあえず、ディエル兄ちゃんを探そう! ここら辺にいると思うからね! 多分……こっちのほうかな?」

 サイファとジルは、人々の流れに逆らうように、忌まわしい黒い空のある方角へ、すなわち北へと足を進めた。生活の気配が途絶えた家々の路地をくぐり抜け、牧場を越えて小川を横切り、ひたすらに北を目指す。
 南へ急ぐ人の多くは、奇異の目で彼女らを見つつも先を急ぐのだったが、中にはサイファ達に助言をする者もいた。北には滅びしかないと。サイファもそれが分かってはいるが、それでも進むしかなかった。今、自分を守ってくれているのはジルなのだから。ジルは、北の方角に自らの兄がいる、と言っているのだから、その言葉を頼りにするしか今のサイファにはあてがなかった。
 北に見えている山々の裾野は緑に包まれていたが、見上げると、その山の頂を見ることが出来ない。スティンの山々はすでに黒い雲に覆われ、その姿は失われたのだ。
「あの山……あれはもう“混沌”の領域になっちゃってるな」
 ジルの言うとおり、スティン山地から北方は、今や“混沌”の支配する領域と化していた。
 サイファは足下の妙なぬかるみも気になった。今、サイファ達が立っている村の地盤が柔らかいわけでもない。また、朝方まで地面を叩いていた雨のせいだけでもない。“混沌”の力の影響で、土が腐ってきているのだ。この地域も遠からず“混沌”に飲み込まれてしまうというのか。
「ジル、君がさっきから言ってる“混沌”とはなんなんだ?」
「おいら自身がよく分かってないからうまく言えないけど……世界に最初からあった、ものすごーく大きな力だよ。『大きな力同士がまぜこぜになってるから世界っていうのは成り立ってるんだ』って、トゥファール様が言ってた。あとは……なんか言ってらしたけど覚えてないや。ともかくあの力、まともに食らったらただじゃあすまないのは確かだよ。もちろん、おいらひとりが頑張ったところで、どうこうなるってもんじゃあない。とても手には負えないよ」
 サイファは禍々しくうごめく黒い雲を見つめた。
「でも、あれを取り除かないとフェル・アルムは滅びるのだろう? 一体、どうすれば?」
「おいらもディエル兄ちゃんに会わないと、どうしたらいいんだか、さっぱり……」

 その時、二、三フィーレ先に三人の人物がいるのに気付いたジルは一目散に駆けだした。
「兄ちゃんだ! おーい!」
 ジルは手を振りながら双子の兄を呼びかけた。が、当の兄は振り返ろうともせず、横にいる数名とともに構えていた。
「兄ちゃん?」
「ジル! 今までどこにいやがった! もうすぐ魔物どもを蹴散らせるんだけど……ちょっとそこで待ってな!」
 ディエルは言いつつ、二歩三歩前に進んだ。
「出るぞ! 気を付けろ……今度のは大きい!」
 白髪の若者が叫ぶやいなや空間が割れ、中から魔物が出現する。巨大な魔物はすぐさま翼を広げ、宙に舞い上がる。その口からは標的目がけて炎が放たれた。剣士と白髪の男はとっさに避けたので、炎はただ地面に叩き付けられるのみ。だが地面が焼けこげていることからも、威力の絶大さが分かる。
作品名:フェル・アルム刻記 作家名:大気杜弥