フェル・アルム刻記
どのくらい経ったのだろうか? サイファの耳にあの親しみ深い声が聞こえてきた。南方アヴィザノから空間を渡って、ジルがやってきたのだ。
「ジル……だね?」
サイファは姿勢を崩さずに、声を返した。
「ごめん……もう少ししたら動けると思うけど……しばらくこのままにしておいてほしい」
「うん」
ジルは小さくうなずいた。
「助けが必要なんだね?」
サイファは涙でぐしゃぐしゃに濡れた顔を上げ、ジルをじっと見据えた。
「……気が付いたら私はジルを呼んでいた。このまま死んでしまってもいいと思ってたはずなのに! でも私の心はそう思ってなかった……。もっと、もっと生きていたいと、そう思っていたんだ……」
サイファは、ぎゅっと唇をかみしめると、顔をしわくちゃにして嗚咽を漏らした。
「どうすればいいんだろう? ねえ、どうしたらいいと思う? エヤードもルミもいなくなって、どうしたらいいんだか、分からないのよ……」
ジルは膝を曲げて、横たわっているルミエールの頬にそっと触れた。
「ニーメルナフの力もて、この人の汚れ亡き魂が、無事にかの地にて安らぎをえんことを」
ジルであっても、死んだ者を生き返らせることは出来ない。彼は片膝を落としてルミエールの冥福を祈った。どことも知れぬ天高くから、もの悲しく甲高い鳥の鳴き声が一声響いた。
「あれはレルカーン……“浄化の乙女”ニーメルナフの大鷹が鳴いているようだね……」
ジルはそっとサイファの背中を撫でた。
「私にも聞こえてる。悲しいけれど、どこか暖かい鳴き声……」
「おいらは……兄ちゃんの、ディエル兄ちゃんのところに行くのがいいと思ってる……。それしか思いつかないけど、何となくそれが一番いいように思えるんだ」
サイファは黙ってうなずいた。
「ジルがそうするのがいいと思ってるのなら、そうしよう」
サイファは再びぎゅっとルミエールを抱きしめた。
「でも……ルミはどうしたらいい?」
ジルは目線を落として眉間にしわを寄せた。
「……かわいそうだけど、このまま……」
「いや!」サイファはかすれきった声をあげた。
「離れたくないよぉ……」
「分かるけどさぁ、姉ちゃんの気持ち……でも、その人だってもう眠りにつきたいと思ってるはずだよ、きっと。だから……ね、分かってよ」
サイファはしばらくルミエールの胸に顔を埋めていたが、小さく首を縦に動かした。
「ルミは……私が埋葬する」
サイファはよろよろと立ち上がると、腰から短剣を抜き出して、地面に打ち付けた。かつかつと音を立てながら、サイファは無心で剣を打ち付ける。
(この剣で命を絶とうと思えば出来ていたのに……私は思いつきもしなかった)
今、こうして剣を振り下ろしている力がどこから来ているのか? それは生への執着からにほかならなかった。
サイファはルミエールの体を抱え上げ、今し方作った穴の中にゆっくりと横たわらせた。ルミエールの表情は、穏やかに見えた。
「ねえルミ。私は何を言ったらいいんだろうか? ……エヤードが見つからなくてごめん。でも、あなた達の思いを、私は無駄にはしない。サイファ自身として、そしてフェル・アルム国王ドゥ・ルイエとして、私は神君に……」
言い慣れた言葉がついと口から漏れたので、サイファは言いよどんだ。
「いや。神君などいない。私はルミとエヤードにかけて誓う」
サイファは毅然として言い切ると、亡骸の上に土をかぶせ始めた。
(もう、ルミの姿をこの目で見ることはかなわないんだ)
そう思うと、枯れ果てたはずの涙が再びこぼれた。
最後の土をかぶせ終わると、サイファは墓前に剣を置いた。柄の部分に聖獣カフナーワウの紋章が入った、近衛兵の剣だ。
「私は、結局は弱い人間だ。だけれども、デルネアの暴走を止める。私ひとりでは駄目かも知れないけれど、何かしら方法はあるはずだ……。だから、今は行く。でも、また戻ってくるからね……ルミ」
サイファは剣をとり、後ろ手に回して――ばさりと後ろ髪を切り捨てた。漆黒の髪の、その豊かな一房をじっと見つめていたが、サイファは剣とともに墓前に置いた。
「さ、ジル。行こう」
サイファはジルに促した。ジルはうなずくと、サイファの手を取って、大きく息をついた。
「じゃあ姉ちゃん。空間を渡るよ。いいね?」
「いいよ」
ジルは口を開き、“音”を発した。と同時に、二人の姿はウェスティンの地から消え失せた。