フェル・アルム刻記
「あれは……まさか龍?!」
魔物の巨躯は、先だってアヴィザノを襲来した闇の龍に似ている。サイファは思わず二、三歩足を引いた。
「いいや、あれはゾアヴァンゲル(竜)っていうんだ。こないだのドゥール・サウベレーン(龍)と、かっこうだけは似てるけど、頭の出来は雲泥の差だよ」
ジルは冷静に言いつつも、ゾアヴァンゲル――竜と対峙している兄達の様子を窺っている。
「だいじょうぶ。兄ちゃん達の手にかかれば、やつは倒せるよ。すごい“力”持ってるもん。ディエル兄ちゃんも、それと“あの剣”もね」
“混沌”によっていびつにねじ曲げられた翼を持つ竜は、刃向かう者どもを嘲笑するように唸ると、体内に宿す熱い空気を再度吹き付けた。が、剣士達の目の前に出現した薄い色の膜によって炎が遮られる。膜を作りあげたのは、白髪の術師であった。
「ゾアヴァンゲルめ! ばかの一つ覚えみたいに火ぃばっか吐きやがる!」
悪態をつきながらもディエルは、かろうじて竜の足下に駆け寄って手刀を見舞った。竜の片足は大きく引き裂かれ、肉片が弾け飛ぶ。どろどろとした緑色の体液が止めどなく流れる。ディエルは竜に致命的な傷を負わせたのだ。バランスを崩した竜は唸り声を上げつつ、どうんと、地面に激突する。
「ルード! 頼む!」
「分かった!」
ディエルの声を聞いた剣士は、未だもがいている竜の首もとに近づき、剣を突き立てた。剣からは閃光とともに圧倒的な“光”の力が竜の体内を侵していく。“混沌”の魔物と化した竜は、純粋な“光”の力に耐えられず一声哭き、そして霧散した。
一瞬の静寂。
そして戦っていた者達は、まるで申し合わせたかのように、安堵の溜息をついた。
「兄ちゃん!」
ジルはディエルの元に一目散に駆け寄った。
「ジル……」ディエルは弟の眼前でわなわなと拳を震わせた。
「兄ちゃん? 痛っ!!」
鈍い音を立てて、ディエルの拳が容赦なくジルの頭に炸裂した。端から見ても、竜に与えた攻撃より威力が大きいとすら思える。しかしジルとてただの子供ではない。涙目を浮かべてうずくまっているのみである。
サイファはかがみ込んで、ジルの頭を撫でつつ、ディエルを睨んだ。
「ディエルと言ったね。何も殴ることはないのではないか?!」
「……元はといえば、そいつがいけないんだぜ」
さすがにばつが悪く感じるのか、ディエルはそっぽを向いて言い捨てた。
「オレを転移させる場所を間違えたんだから……まあ、でも」
ぽりぽりと頭をかくディエル。
「でもな……そのおかげでもある、かな。オレが今こうやって、ルード達と一緒に戦ってるってのは……おいジル!」
ディエルは、サイファと同様にしゃがみ、弟に声をかけた。
「なんだよぅ。まだ気がすまないの?」
ジルは憮然とした顔をディエルに向けた。
「……一発で我慢しといてやるよ。ほら、いつまでもその姉ちゃんに甘えてないで、立てっての!」
ディエルはぽんぽんとジルの頭を軽く叩く。ジルも渋々立ち上がった。兄弟の視線が交錯する。その時、お互い笑いあったかのように、サイファには思えた。表だって感情には示さないくせに、その実、兄弟同士がやっと出会えたことにお互い喜んでいるのだ。
「ディエル。そっちの人はどうしたんだ?」
剣士――ルードは汗を拭いながら、サイファ達に近づいてきた。ディエルが答える。
「こいつはオレの双子の弟でジル。オレと同じくトゥファール様に仕えてる。そして――」
ディエルの言葉を遮り、ジルは胸を張って紹介をはじめた。
「こちらの女性は、サイファ姉ちゃんさ! 話せば長くなるけどさ、姉ちゃんはこう見えても――」
「つもる話は後にしよう」
サイファが国王である、ということを話そうとしたのが分かったのか、とっさにサイファはジルの口を押さえた。
「ジル、そのことは追って私の口から話すよ。分かった?」
しばらくサイファの腕の中でもがいていたジルだが、彼女の言葉を聞いておとなしくうなずいた。
「急ごう。ここもじき、黒い雲にとらわれる」
白髪の若者――〈帳〉は静かにそう言い、サイファのほうをちらと見た。一瞬、眉を動かす。
(まさか、私の正体を見抜いたのか?)
サイファは内心焦ったものの、ここにいる者達には自分が国王であることをうち明けても問題ない、と直感的に感じ取っていた。
「その、……大丈夫なのか? あなたの服はずいぶんと汚れているのだけれども」
だが、サイファの懸案とは外れ、彼女の装束に〈帳〉は戸惑ったのだった。雨を浴びてずぶ濡れであり、しかも親友の血に濡れているのだ。
「あ。……そうだったな……私は……」
(私は、エヤードとルミを失ったのだったな……)
再びサイファの脳裏にルミエールの最後の微笑みが浮かぶ。今になって、彼女を失ったことがようやく実感となってサイファの胸中を支配した。
悲しみと同時に、極度の緊張のあまり、今まで忘れていた疲労が襲う。両足の力が一気に抜けて、どさりと、サイファは地面に倒れ伏した。
「姉ちゃん?!」
ジルが慌てふためくのを見て、〈帳〉は諭した。
「大丈夫だ。よっぽど疲れていたのだろうが、それを急に認識したのだろう。――彼女には、つらいことがあったのか?」
ジルは小さくうなずいた。
「とにかくここからはやく行かないと! この人を運ばなきゃならないでしょう?」
ルードが言った。
「いや。私がおぶっていこう」
言いつつも〈帳〉は、サイファを抱きかかえる。
「君がおぶうと言うのならば構わんが、ライカに何を言われるか分からんだろう?」
揶揄すかのように小さく笑みを浮かべ、〈帳〉はサイファを背負った。
「デルネア……」
サイファの口から漏れた言葉を〈帳〉は聞き逃さなかった。