フェル・アルム刻記
二.
サイファは絶望感に打ちひしがれながら、直面している現実がなんと酷なことなのか、と呪った。これが現実なのだとは、とてもではないが思いたくない――。
腹部から滲み出る血とともに、近衛隊長――ルミエール・アノウの生気は徐々に奪われていく。サイファは、家族とも言える友の体を抱きしめながら、ルミエールの死期が近いことを愕然と感じ取っていた。
ルミエールと過ごしたかつての生活、近衛隊長となったあの日のルミエール、そして――。信じがたいがまもなく訪れるルミエールの死。ルミエールを道中の護りに選んだのはほかでもない、サイファ自身だ。しかしなぜ彼女が、ルミが殺されなければならないのか!
回想、悲しみ、後悔、怒りと憎しみ、そしてそれらとともにある、どこか虚ろな感情。――さまざまな思いがサイファの中を錯綜し、彼女はさらにルミエールの体を強く抱きしめた。唇は固く結んだまま。そうしていないと、自分が自分自身を保てるかどうか、怪しい。両の頬を伝う涙とともに、激情に身を委ねたい気持ちを、それでも懸命に抑えつつサイファは唇を噛んだ。
ルミエールも泣いていた。色を失った唇をわなわなと動かしながら、絞り出すように声を出した。
「あなたは……ルイエなのでしょう? 国王たる者が……。たったひとりの人間のためだけに涙を流すのは……それは王道ではないわ……」
「馬鹿っ!!」
サイファはルミエールをきっと見据え、かすれ果てた声で怒鳴った。
ルミエールの瞳の、なんと澄んでいることか。それは彼女自身が死を悟ったためなのだろうか? と思うと同時に、それまで必死に我慢していた嗚咽が堪えられなくなる。
「怒るわよ、この期に及んでっ!! なんっで……そんなことを言うの?! それはあなたの本心?! だとしたら怒るわよ! そんな王道論なんてどうでも……国王だから一体なんだというの?! ルイエは人ひとりのために泣くことが出来ないの? もしそうだと言うんなら……今の私は、ルイエじゃない! サイファだ!」
一気にまくし立てたサイファは堪えきれず、ルミエールの胸元に顔を埋めると大声で泣き叫んだ。
「ごめん、ルミ、ごめんなさない! 私がルミを連れてくなんて言わなかったら、こんなことにはならなかったのに! ごめんなさい……」
ぽんぽんと、サイファの背中が叩かれた。サイファはどうしようもなくあふれ出る涙を飲み込み、すっと顔を上げた。
泣きはらしているのはルミエールも同じ。彼女はにっこりと笑ってみせると、再び口をゆっくりと開いた。
「……エヤードがお父さんで、私達が姉妹で……少しの間だけだったけど、家族を感じられて楽しかった……」
「うん……うん!」
サイファはルミエールの手を握りしめた。冷たくなってしまっている肌を感じてしまうことが悲しかったが、それでも握らずにはいられなかった。
「だから……あやまらないで……」
ルミエールは静かにそう言うと、両のまぶたを閉じた。
サイファは黙ってうなずき、再びルミエールを抱きしめた。
もう、彼女は死に向かおうとしている。呼吸がゆっくりと繰り返され、そして――
最後に一度、大きく息をはいて、ルミエールは亡くなった。
深夜。ぽつり、ぽつりと降り出した雨は、やがて大粒の雨となって二人の体を容赦なく叩き付ける。
サイファはただ、ルミエールの体を抱きしめていた。
* * *
ほんの三日前。烈火を追って旅立ったサイファ達は、身分を隠すために家族を演じることにした。近衛兵のエヤード・マズナフが父親。ルミエールが姉役で、サイファは妹だった。
初めは戸惑いながらも自分達の役割を演じていた彼らだが、家族の温かみを感じ合うまでそう時間はかからなかった。三人とも、すでに本当の家族がいなかったから、なおさら思いは募っていった。お互いがお互いのことを、本当に大切に思っていたのだ。
デルネアの暴走を知った彼らは、何としても烈火達をくい止めたかった。
道中目にしていたのは、たちの悪い盗賊や、正常な意識を失った人々、そして魔物達。苦労を重ねつつも、烈火達の進軍に追いついた彼らは、遠巻きにして監視を続けていた。
ついにエヤードとルミエールがデルネアの素性を突き止めたその矢先、二人は疾風達と出くわした。激しい攻防の果てに疾風を倒したものの、エヤードは惨殺されその亡骸がどこにあるのか分からなくなってしまった。かたやルミエールも致命傷を受けた。ルミエールは必死の思いでサイファのもとに辿り着いたのだが――。
サイファは突如、絶望に襲われた。
今や、彼女を護る者などいない。家族と呼べる者もいない。サイファは、ひとりになってしまったことにはたと気付いて、再び涙を流した。
激しく打ち付ける雨はいつしか止み、絶望的な夜もやがて明けた。季節は夏だというのに、もはや暑さを感じない。温度という概念を世界が忘れてしまったかのように、虚ろだ。
今日になって、ついに日の光までも失われた。昨日まで〈空〉と呼ばれていた場所に広がるのは、虚ろな一面の灰色。それは迫り来る“混沌”によるものなのか、それとも、この孤立した空間が本来持っていたごく当たり前の色なのか?
そのきわめて曖昧な空のもと、サイファは未だにルミエールの亡骸を抱きしめていた。
現れては消える、さまざまな感情の果てに残ったのは、己の無力さ。結局自分は何も出来ないままだった。いったい何がドゥ・ルイエだというのか? 王宮から離れれば、ただの一介の人間に過ぎないというのに。アヴィザノで、いっぱしの口を叩いていた自分自身を思い起こすにつけ、無力感でいっぱいになった。
「私ひとりで……何が出来るというの?」
サイファは自虐的に笑った。ルミエールとともに、ここで朽ち果てるのがいいのかもしれない。サイファは、ずぶ濡れのままうずくまっていた。この虚ろな灰色の空こそ、今の自分に相応しいと思った。
北の空を覆い尽くすのは、禍々しくも黒い空。それはすでにスティンの山々をすっぽりと隠していたが、なお南方を襲わんという忌まわしい意志すら感じられるようだった。
(この世界は、そう遠くない日に破滅するんだ)
根拠などはない。サイファは直感でそう感じた。
(このまま……世界が消える前に、消えてしまいたい……)
もはや破滅しか自分自身の願望がないようにすら思えた。しかしそんな思いとは裏腹に、彼女は先ほどから胸元の飾りを握っているのだった。瑠璃色の珠。トゥファール神の使い、ジルからもらった珠だ。サイファは指先でそれをいじりながら、いつしか無意識に言葉をつぶやいていた。
「……エブエン・エリーブ……」
サイファは幾度となくその言葉を繰り返した。四回ほど言った時、ようやくサイファは、自分が呼び出しの言葉を発しているのに気が付いた。ジルを呼び出す呪文であるそれを。
(そうか……やっぱり救いを求めているんだな、私は)
生への渇望と、かすかな希望にすがる気持ち。心の奥底に眠っている感情に気付いた彼女は、冷たくなったルミエールの顔に頬を押しつけ、さめざめと泣いた。
* * *
「姉ちゃん……」