フェル・アルム刻記
(聖剣を持ったルードがここにいれば? いや、だめだ。あの剣は本来持ちうる力をまだ発揮していない。じゃあ、僕が“混沌”を抑えきるというのは? 無理だ。人間の体で抑えきれるようなものじゃあない!)
ハーンは、枯れ果てた喉をそれでも張り上げながら、住民達に逃げるようにと勧告し続けた。じき、クロンの宿りは濁流のように迫り来る“混沌”に飲み込まれてしまうのだ。
血にまみれた衣服を振り乱し、息せき切って駆け抜けるハーンを、人々は奇異の目で見つめていた。化け物がいなくなって、空も元どおりに戻ったというのに、この若者は何を必死になっているのだろう? ああそうか、親しい人が亡くなったので悲しみに暮れるあまり走っているのだ。かわいそうに。
[頼むから……逃げてください! はやく! “混沌”に飲まれる前に!]
ハーンの必死の懇願もむなしく、人々はただハーンを哀れみの眼差しで見つめるだけだった。
足下のぬかるみに足を取られ、ハーンは危うく転びそうになった。石の敷かれた通りを走っているというのに、なぜ泥を踏みつけているような感じがするのか、ハーンは訝しがって足下を見た。
地面が“混沌”の影響を受け、腐りつつあったのだ。ハーンの踏みつける石はぐにゃりとひしゃげ、彼の足下を危うくさせる。振り返ると、黒い空は北に引き返すのをやめていた。
(僕が外に出るまで、“混沌”の侵攻から持ちこたえられるのか?)
心臓の鼓動は悲鳴を上げ、とうに限界に達したことを主に伝えるが、ハーンは走るのをやめるわけにいかなかった。
やっとの思いでハーンは東門――二つそびえる石造りの監視塔まで辿り着いた。東門ではナスタデン達が衛兵達と話をしていたが、ハーンの息遣いに気付き、彼を迎えた。
[兄ちゃん、やっと来たね!]
ディエルの声にハーンは安堵した。だが、まだ腐らずに固さを保っている小石にけつまずくとその場に倒れ伏せた。
[こんなになるまで走ったってのか? 大丈夫かハーン]
ナスタデンはハーンを抱え起こして言った。
[だいじょうぶ……]
息も絶え絶えにハーンは言った。
[何が大丈夫なもんか。とにかく落ち着けよ、な? 化けもんも退治されたって言うし、もう戻ろうと思ってたところだ。宿に戻ったら休ませてやるからさ]
ナスタデンはにんまりと笑って見せた。ハーンは目を見開いてわなわなと打ち震え、宿の主人の裾をぎゅっとつかむと、大きくかぶりを振った。
[ハーン?]
ハーンの表情が冴えないのに気付いたナスタデンは、声の調子を落として語りかける。
[戻っちゃだめだ、親父さん! うっ……]
ハーンはそれだけ言うと激しく咳き込み、胃の中のものを吐き出した。未だ肩で息を繰り返しているハーンはそれでもすくりと立ち上がり、ナスタデンと対峙した。
[今は詳しく話している時間がないんだ……とにかく逃げよう! せめてあそこに見える丘まで辿り着かないと……]
門を出て二、三十フィーレ先にある小高い丘を示した。
[おい、なんだあれは?!]
衛兵達の声を聞いたディエルは町の中を見渡した。
「うわ……」
ディエルは顔をしかめた。大地は今まであったかたちを成さなくなっており、ぼこぼこと音を立てて腐っていく。
[兄ちゃん達、町はもう保たないぜ! あの空が引き返してくるよ!]
ディエルが叫んだ。
土が腐り、今までの固い地盤を失った家々は、徐々にではあるが地中に沈みつつある。町の中からは予期せぬ出来事に対し、再び驚きの声が聞こえてきた。
ナスタデンはおもむろに足下の石をつかんだ。石はまるで柔らかい粘土のようにどろどろになっていた。ナスタデンは苦虫をかみつぶしたような顔をして、気色悪い感触のする石をうち捨てた。
[せめて……これだけでも……救いになってくれれば……]
ハーンは胸の前で両手をかざし、聞き取れないような声で二言三言呪文を唱えた。すると手の間から、シャボン玉のような透明な球がぽうっとわき上がってきた。
[な……ハーン?!]
術の行使を目の当たりにして驚くナスタデンを後目に、ハーンはふわりと浮く球に向かってあらん限りの大声を上げた。
[クロンの宿りはもう保たない! お願いだから東門から逃げ出してほしい!]
言い終わったハーンは、ボールを投げ込むような要領で、言葉を吹き込んだ透明な球を町の中めがけて投げた。ハーンの手を離れた球はまるでそれ自身が意志を持っているかのように速度を上げ、町の中心と思われる辺りで大きく上に昇って弾け散った。そして球にこめられたハーンの声は、あたりにわんわんと響いた。
[これで少しでも多くの人が逃げ出せたらいいんだけど……]
意識が朦朧としつつあるハーンは、再びナスタデンの肩に寄りかかった。
[逃げよう、親父さん。ついに崩壊がはじまってしまった]
ハーンが指さす方向。一度は引いたと思われていた黒い空が、再び押し寄せようとしていた。しかも今度が空だけではなく、大地をも染めんとばかりに、漆黒の空間をともなって。
[……分かった。逃げよう]
ナスタデンは幾多ものこみ上げる感情を抑えつつ、短く言い切った。