フェル・アルム刻記
三.
表に出たハーンは再び黒い空を見つめた。剣を持つ手がわなわなと震えているのは、怒りのためでも、恐怖のためでもない。かの漆黒を懐かしむ感情が心の底からわき出ている。そんな自分自身に戸惑っていたのだ。
そんな感情を払拭するかのように、ハーンは駆けだした。
町の通りには魔物達の黒い屍が至るところ転がっていた。時折、町のどこかから金属のあたる音が聞こえてくる。数こそ少なくなったものの、魔物達はまだ襲ってきているのだ。民家はどこも固く門を閉ざし、灯りを消して侵入者の襲来を拒絶している。だが、魔物どもはクロンの外からやって来たのではないのだ。彼らは、黒い空の下であればどこであれ、空間を渡ることが出来るのだから。屋内に突如として現れた魔物達の犠牲になった人々も多いだろう。
[お願いだから逃げてください! 東の門から出てスティンへと! クロンはもう保ちません!]
ハーンは喉が枯れんばかりの大声を張り上げつつ、ひたすら走った。一人でも多くの人が避難してくれることを願って。
(理解してくれる人などいるだろうか?)
詮ない願いでしかないのかもしれないのだが、諦めてしまっては助かるものも助からなくなる。この場で、状況を正しく把握しているのはハーンひとりしかいないのだ。
どこかで断末魔の悲鳴が聞こえた。何も出来ない自分が情けなく思えてくる。ハーンは泣き出しそうになっている自分を抑えるために、唇を固くかみしめ、ふたたび大声で人々に呼びかけた。戦い終わった戦士達が一瞬、ハーンの言葉に耳を傾けるも、とりたてて反応はしなかった。
小さな町だとは言っても〈緑の浜〉から町長宅まではかなりの距離がある。さすがのハーンも、人々に呼びかけながら走るのは堪える。途中、魔物が飛びかかってきたが、ハーンは光弾を飛ばして撃退した。
ようやく通りの正面にバルメス宅の白塗りの塀が見えてきた。しかし、そこに行くまでの通りを魔物が暴れていて邪魔をしている。がっしりとした四肢を持つ魔物のすがたは、熊のようでも猪のようでもありながら、そのどちらでもない。以前、ハーンがディエルを連れてスティンへ向かう最中に出くわした魔物と同じ種族である。
魔物はしかし、ハーンに向かわずに、赤い目を不気味に輝かせながら、道ばたで倒れている戦士めがけて突進していった。このままではあの戦士はやられてしまう! そう思ったハーンは力を振り絞って疾走すると剣で一閃、魔物を瞬時にして撃退した。
[……やあ……魔物達の状勢は……どうだい?]
荒く息を吐き出しながらも、ハーンは戦士に訊いた。戦士は一言礼を言うと起き上がった。
[まったく酷いもんだ! 一体どれくらいやられたのだか、見当がつかない]
彼は額に流れている血をぬぐって言った。
[でも町の中も、だいぶ落ち着いてきたようだ。化けもんどもはあらかた始末したんじゃないか?]
[そう……お願いだから、町の人に呼びかけて一刻も早く東門から逃げて欲しいんだ。僕はこれからバルメスさんにかけ合ってくる]
[町長さんだって?]
戦士は顔を曇らせた。
[無事だといいが……はたして大丈夫かどうか]
[彼に何かあったのかい?]
戦士は、足下で未だ痙攣を繰り替えしている魔物に、忌々しげにとどめを刺した。
[こいつはな……バルメスさんのところから飛び出してきたんだ。……てことは、やられちまってるかもしれない]
そう言って顔をしかめた。それはハーンにとって、もっとも聞きたくない言葉であった。
[だけど、僕は行ってみる! まだ、そうと決まったわけじゃあないだろう?! とにかく、このままじゃあみんなやられちゃうんだよ! あなたも早く逃げてくれ! 東へ!]
再度忠告をして、ハーンは一目散に駆けだした。
門をくぐると、玄関の扉は無惨にもうち破られていた。ハーンは勢いをつけて扉を開けた。
「これは……」
館の中はまるで嵐が訪れたかのような酷い有り様だった。壁はいたるところで破られ、調度は壊されており、あの魔物がどのように暴れ回ったかが分かる。
玄関口付近で女中が一人伏していた。ハーンは駆け寄って抱き起こすが、すでに彼女はこと切れていた。ハーンは冷たくなった女中の手を握りしめ、黙祷を捧げた。
「せめて僕がもう少し早く目覚めていれば! 黒い空が見えた時にバルメスさんに会っていれば! みんな逃げられたのに! こんなことにはさせなかったのに……」
彼女を壁際に横たわらせ、もう一礼すると、ハーンはよろよろと歩き出した。目頭が熱くなるのを感じるが、感情を押し殺してハーンは駆けだした。
一つ一つ扉を開け、室内を見渡す。三つ扉を開けたが、中はもぬけの殻だった。しかし、四つ目の扉を開けた時、むせかえるような嫌な匂いが室内から立ちこめ、ハーンは思わず顔を背けた。血の匂いだ。
ハーンは覚悟を決めて向き直った。戸口付近に二人、テーブルに五人、多量の血を流して倒れていた。ちょうど食事どきだったのだろうか? 食堂に一家全員が集まったその時、あの魔物が姿を現したのだ。そして、バルメスの家族や住人達の逃げる間もなく――。
[町長! バルメスさん!]
声を裏返しながら、ハーンは血に染まったバルメスの身体を抱えた。だが、もはや言葉は返ってこない。伝わってくるのは、冷え切った肌の感触と、なま暖かい血である。ハーンの望みは絶ちきられた。
(あなたがいなくなって、どうすればいいのです?)
堪えていた感情が堰を切った。ハーンはバルメスの胸に突っ伏して嗚咽を繰り返した。
その時、窓から光が射し込んできた。太陽が姿を現したのだ。
(日の光が、死者の魂を清めてくれているみたいだ……。浄化の乙女ニーメルナフよ。イシールキアの妻よ。あなたの力をもって、これらの魂に救いを与えて下さい)
弔いの言葉を述べ、力なく座り込んだハーンは、呆然と考えた。
(日が差したってことは、これで黒い空は去ってくれたのか? でもなぜ突然明るくなったんだ?)
ハーンはゆっくりと立ち上がると、バルメス達に深々と黙祷を捧げて部屋をあとにした。ひょっとしたら最悪の事態だけは免れたのかもしれない。ハーンは淡い期待を胸に、館からのろのろと這い出ていった。
表に出たハーンは、日の光の明るさに目がくらんだ。上空は雲一つない青空になっている。黒い空は――波がひくように北へと戻っているのだ。ハーンは、泣きはらした目を拭い、とりあえず窮地を脱したことを実感した。が。
(――ちがうな)
ハーンの“知識”が、あまりに重い言葉を囁いた。
そうは言っても黒い空は見る見るうちに引き下がっているじゃないか、ハーンは陰鬱と安堵が混ざった頭で考えた。しかし次の瞬間、ハーンの顔色は真っ青になる。
「違う! あれは……あの空は還っていったんじゃない!」
黒い空は、波がひくように、すぅっとひいていった。
そう。あたかも、大津波が訪れる前に海の潮が大きく後退するがごとく――。
「この地域一帯を“混沌”の中に飲み込もうとしてるんだ!」
ハーンは最悪の絶望とともに確信した。
もはやハーンに出来ることは無くなってしまった。