フェル・アルム刻記
[違うんだ! 僕が言ってるのは魔物達のことじゃない! 見えるだろう、あの黒い空のことだよ! あれが向かってきたら、何もかも全て無くなってしまうんだよ!]
大げさに身振り手振りを示しながら、ハーンも必至に声をあげた。リュスは何気なく上空を見つめる。
[……確かにこの空は嵐を呼びそうで薄気味悪いけどよ……]
[嵐なんてもんじゃないよ、あれが呼ぶのは! もっと、もっと恐ろしいものだ! 頼む、みんなに言ってくれ!]
だがハーンの懇願もむなしく、リュスはまったく的を射ない面もちで、ぽかんとハーンを見つめるのみ。
[とにかくハーン、お前さんがいたら心強い。早く支度をしてくれないか? ま、もうじき片が付くとは思うけどな!]
リュスは右手を挙げて挨拶をすると、ほかの戦士達とともに走っていってしまった。
[だめだ、こんなことじゃあ、みんな“混沌”に飲まれてしまう!]
だん! と、ハーンは珍しく感情を露わにして、壁に拳をたたきつけた。ディエルは思わず肩をすくめる。
[ディエル。親父さん達は無事なのかい?]
ハーンは言葉の調子を落ち着かせて言った。
[え? うん、多分下の階にいるだろうけど]
[分かった。……今何が起きようとしているのか、君にはわけが分からないとは思うんだけど、とにかく親父さん達と一緒に町の外に逃げてくれ。覚えていてほしいのは、必ず東の門から逃げるっていうこと。そのまま南に行けばスティンに行けるからね。西の門から逃げたら……絶対にだめだよ!]
横に倒れている魔物を気にしつつも、ハーンはそそくさと支度を整え、漆黒の剣を取り上げた。
[さあ、行こう。親父さんには僕から話を付けるから]
[その後、兄ちゃんはどうするんだよ?]
[ここからみんな避難するように呼びかけるさ。町長のバルメスさんにお願いをしてみる]
ここクロンの宿りが形成され始めたのは二百年前。サラムレから移住してきた人々の中にバルメス家があり、以来バルメス家は、この地に居を構えている名家として知られている。クロンが町と呼べるほどに成長したのも、かの一族の人脈と人望によるところが大きく、町長に推されたのは当然の成り行きであった。
来る者は拒まず、暖かく迎え入れる。はじめてハーンがクロンを訪れた時も、初老の町長は親身になって接してくれたのだ。ハーンは今一度、町長の恩にすがろうと思った。バルメスの一声があれば、町の人を全て避難させることくらいたやすいはずである。ハーンとしても、それ以外に手の打ちようがなかった。
階下では、〈緑の浜〉の宿泊者達とナスタデン夫妻が神妙な面もちで座り込んでいた。
[親父さん!]
[ハーンか! 良かったぞ。気がついて何よりだ!]
ナスタデンはハーンが目覚めた喜びと、現状の不安が入り交じったような顔で、狼狽しながら話しかけてきた。
[しかしハーンよ。……気を落ち着けて聞いてほしいんだが]
[分かってるさ。化け物が町中を荒らしている。“混沌”が近づいてきて、魔物達が跋扈《ばっこ》している、てことなんだろう?]
戦士として、毅然とした口調でハーンが言った。
[ハーン……。お前ってやつは、ふだんぼぉっとしてるくせに、時々とてつもなく鋭くなるんだな……]
ナスタデンは目をぱちくりして驚いてみせた。
[ともあれ、今朝からこの有り様だ……一体クロンはこれからどうなっちまうんだ?!]
[親父さん、頼みがあるんだ]
ハーンはナスタデンの両肩にぽん、と手を置き、諭すように話し始めた。
[正直なところ、クロンの宿りはもう保たない。いずれ近いうちに“混沌”の闇の中に消え失せてしまうだろうからね。そこでお願いがあるんだ。聞いてくれるよね?]
ナスタデンは素直にうなずいた。
[ディエルを連れて……ああ、もちろんお客さん達も一緒に東門から出て、出来る限りクロンからは遠ざかっていてほしいんだ。僕はバルメス町長に、みんなを避難させるようにって話を付けたあとで、必ず親父さん達に追いつく。とにかく一刻を争うんだ!]
[しかしハーン。……俺はここを手放すつもりはないぜ? もし、避難するにしても、色々と持っていくもんとかが……]
[だめだよ!]
有無を言わせぬハーンの物言いは、恐ろしく威圧感に満ちていた。
[頼むから、僕の言うことを信じてほしいんだ。今すぐ逃げ出してくれ、お願いだから!]
雰囲気に圧倒されたナスタデンがうなずくのを見ると、ハーンは笑みを浮かべ、玄関の戸口へ向かった。
[じゃあディエル、あとで会おう! あ、そうだ、僕の部屋からタールを持っていってくれないか? あれがないと商売あがったりだからね]
[あの楽器を持ってけばいいんだろ、分かったよ、兄ちゃんも気を付けろよな]とディエル。
[ハーン、お前の言うとおり、俺達は今から逃げ出そうと思う。が、気を付けろよ。化けもんが外をうろついてるからな。……しかしお前ってやつはほんと、とらえどころがないやつだなあ]
ナスタデンが言った。
[それがティアー・ハーンだからね! くれぐれも東の門からスティンに向かってちょうだいな、お願いだよ!]
念押ししたハーンは目配せ一つして、宿から出ていった。