フェル・アルム刻記
二.
デルネアらが進軍を開始した、同じ頃。フェル・アルム北部は混乱のきわみにあった。クロンの宿りは、今まさにその渦中に飲み込まれようとしていた。
北方――“果ての大地”に“混沌”そのものを表す黒い空が出現したのは、三日ほど前だろうか。
それは徐々に青空を蝕みつつ南下をしていた。クロンの人々は訝りながらも日々の暮らしを続けていた。しかし今日、夜が明けて一刻を報せる鐘が鳴っても空はいっこうに明るくならない。
人々が気付いた時には、すでに災いが降りかかっていた。何の前触れもなく魔物が出現し、町中を混乱に陥れている。衛兵や傭兵達は、見たこともない化け物に怯えつつも被害が広がらないように自分自身の仕事をこなしていた。人々の嘆く声、叫び声が聞こえてくる。もはや平穏な日常など崩れ去っていた。いったい何人の人達がわずか半日あまりで犠牲になったというのだろうか?
だが魔物の到来などは、崩壊の前触れに過ぎないのだ。魔物の襲撃を恐れてクロンの宿りからいちはやく逃げ出した人達はまだ幸運である。黒い空が運んでくるもの、すなわち太古の“混沌”そのものが押し寄せた時、間違いなくこの町は漆黒のもとに消えて無くなるのだから。
* * *
「ああ! いったい何なんだよ、こいつはぁ!」
宿屋〈緑の浜〉にて。ディエルは、今し方自分に襲ってきた、今となっては骸となっているものを足蹴にした。
ディエルとハーンが寝泊まりしている部屋に球状の空間が突如出現し、中から羽らしきものを幾多も持つ、鳥とも巨大な虫ともつかないような魔物が飛び出してきたのだ。魔物の突進を受けるより早く、ディエルは低い姿勢で一歩身を乗り出して、魔物の胴体あたりに手刀の鋭い一撃を見舞った。化け物の体はまっぷたつに裂け、床に落下して息絶えた。
「“混沌”の先兵どもめ。こいつらがこんな人の住むとこまで現れるなんて……!」
ディエルは魔物の死骸を放って、窓の外を見やった。昼下がりだというのに、外はまるで夕暮れ時のように暗い。なぜならば、上空を黒い空が覆い、日の光を閉ざしているからだ。
「黒い空……昨日まではまだまだ遠くにあったのに、今日になっていきなりこんなとこまで来てるなんてなぁ!」
ディエルの口調は余裕など全くなく、焦りが感じられた。
ディエルは神の使いである。アリューザ・ガルドを創り上げたアリュゼル神族のひとり、“力”を司るトゥファール神の使徒。世界に点在する“力”をトゥファール神のもとに持ち帰るのがディエルとジルに課せられている使命であった。
そんな彼であっても、目の当たりにする太古の“混沌”に対しては、なすすべがない。あの暗黒の中に入ってしまえば最後、自身は抗うことが出来ずに消滅してしまうだろう。
「ジルはまだ城のところにいるみたいだな。ジルのやつ、もう一回こっちに来てくれよぉ! オレの足だと城まで何日かかるか……もう迷うのは金輪際ごめんだし……どうすればいいんだよ?! くそぉっ」
ディエルは舌打ちをして身体を翻す。
「もうだめだめ! こんな“混沌”が来ちゃったら、オレの手には負えないよ。ここは逃げるしかないね! 馬でも盗ってきちゃってとっととジルに会って、一発こづいたらこの世界からおさらばしよう! うん、それしかない!」
自分を納得させるかのようにひとりごちると、彼はそそくさと魔物から離れ、扉の取っ手に手をかけようとした。
だが取っ手を回すのを躊躇する。がちゃり、がちゃりと取っ手を回す動作を繰り返すが、しまいにディエルはくるりと身を返した。
「……ああ、もう! なんでオレはこの兄ちゃんが気になるんだよ?! このさい“力”を取ることなんて気にしてる場合じゃないってのにさ!」
ディエルはハーンが寝ている枕元まで近づいた。ハーンがうめき声をかすかに上げて寝返りを打つのを見て、ディエルの顔がほころんだ。じきにハーンの意識が戻りそうである。
「ジルとおんなじように……オレもこの世界に入れ込んじゃってるっていうのか?」
ディエルはぽつりとこぼした。
その時、ハーンの両目がゆっくりと開いた。金髪の青年はけだるそうに首を左右に動かし、まわりを見渡す。
[あれぇ? ここって?]
がばりと毛布を跳ね上げて、ハーンは起き上がった。
[兄ちゃん、ようやっと目が覚めたようだね]
[ディエルかい? ここはまさか……親父さんのとこかい?]
[そうさ。兄ちゃん、あの化けもんと戦ったあとでぶっ倒れちまったからな。はっ! まったく、ここまで連れてくるのに苦労したんだからな!]
ディエルは、ハーンが倒れたあとの顛末を簡潔に語った。ハーンが倒れた原因は、ハーンの漆黒剣に細工を施したディエルにあるのだが、ディエルはおくびにも出さずに軽口を叩いた。
[そうか、戻って来ちゃったのか……今はいつなんだい?]
やや落胆した面もちでハーンが言った。
[あれからかれこれ三日経ってるんだよ。さあ、さっさと起きておくれよ! こんなことしてる場合じゃ……]
[たしかにこうしてる場合じゃないよ。三日も経っちゃったなんて! とにかく早く出かけなきゃ! 行こうディエル、君には面倒を見てもらって、迷惑かけたみたいだしね]
言いつつハーンは衣装掛けから自分の上衣を取って着替え始めた。
[そうだよ、とにかく早く逃げ出そうよ!]
こんなとこでのんびり構えている場合ではない。“混沌”に飲まれる前に、ディエルは一刻も早くクロンの宿りから逃げたいのだ。
[……逃げ出すって? うわ! なんだこいつは?!]
ハーンが嫌悪の声をあげた。未だ体液を流しながら床に転がっている骸に気付いたのだ。
[死んでる……。しかしこんな化け物がどこから……?]
その時、がいん、という何とも重々しく鈍い響きが外から聞こえてきた。間髪入れずに雄叫びが上がる。
ハーンは窓に駆け寄って、おもての様子を見た。
[な……!]
言葉にならない。町の衛兵達や、見知った傭兵達が、異形の魔物達と戦っているのだ。すと、と槍の鋭い一撃が見舞われ魔物が倒れるところを、ハーンとディエルは目の当たりにした。そんな戦いの光景が、街のあちこちで繰り広げられているようなのだ。
そして何より、空を覆い尽くすのは漆黒そのもの。
[“混沌”が……こんなところにまで……]
思わず、ハーンはつばを飲み込んだ。窓の格子をつかんでいる腕が震えるのが分かった。
[なんて巨大で……忌まわしい空なんだ! “あの時”とはまるで比べものにならないよ]
そして、意を決したように両開きの窓を開け、今し方まで戦っていた戦士に叫んだ。
[そこの槍使いはリュスだろう?!]
魔物の死体を検分していた戦士のうち、槍を持っていた男が顔を上げた。
[ハーンか! 気がついたようだな! 目が覚めてんのなら、手を貸してくれよ!]
[今から行くよ! だけどリュス、町のみんなに言ってほしいんだ。クロンから出来るだけ早く逃げ出すようにってね!]
[大丈夫だ、ハーン! 俺達のほうが化けものどもを圧倒しているからな! これ以上こいつらが増えることもなさそうだし、そのうち全部退治出来るさ! そうしたら、避難してる町の連中も引き返してくるよ]