フェル・アルム刻記
一.
三日三晩続いた祭りから一ヶ月が過ぎようとしていた。
高原で生活するのは羊飼い達とその家族で、あとの者は麓の村々で暮らす。麓までは徒歩で不便を感じない距離なのだ。
ルードやケルンは羊飼いとしての暮らしを再開している。シャンピオはというと、数日前にコプス村とベケット村の物産を馬に積んでサラムレへと出かけていった。
水の街サラムレは、北方と南部の中枢域とを結ぶフェル・アルム中部の街だ。そして年に一回行われる武術会があることでも知られている。
ルードはハーンにまた驚かされた。
なんと彼は、武術会で三回も準決勝まで勝ち進んだというのだ。まさかハーンがそんなに強い人だったとは、細身の外見からは想像が出来なかった。まだ優勝したことがないのをハーンはしきりに残念がっていた。
そのハーンも今はもう村にはいない。祭りが終わったあとも二日ほど滞在し、タールの調べを近隣の村々で披露していたらしいが、その後クロンの宿りへとひとり旅立ったのだ。
北の町、クロンの宿りは、サラムレとダシュニーを結ぶルシェン街道沿いにある。便の良さゆえに二百年ほど前から人々が集まりだし、数十年前からは小さな町を形成するに至っている。
[クロンの宿りには僕の家みたいなもんがあってさ。しばらくはそこにいるよ。もちろん、隊商の護衛の仕事が入ったならそっちへ行っちゃうけどね]
そう言って眠そうな目をこすり、宿酔の頭を抱えながら馬の鞍にまたぎ、村をあとにしたハーンを、ルードはよく覚えている。そんななりを見て、不思議な人だ、という印象を強くしたのだった。普段は戦士の雰囲気をまったく感じさせないが、戦いの場となれば秘めた力を露わにする、そんな性格なのだろう。
それから一ヶ月。ルードは再び緩慢ともいえるほどの平穏さの中に身を置いていた。
“その日”が来るまでは。
* * *
[でえい、くそぉっ!]
ルードは顔をしかめ、短剣で自分の行く手を遮る草を苛立たしげに薙ぎ払った。あたりは高い木に囲まれ、自分がどこにいるのか見当もつかない。
その日ルードは友人達と、スティンの山々の一つ、ムニケスへとやって来ていた。高原から最も近いこの山は、昔から少年達の遊び場だ。狩りという実益も兼ねており、年上の者の忠告を聞いていればまず安全な場所だ。迷った時のみんなへの報告の方法、獲物を見つけた時の対処の方法、木になっている果実のうちどれが食べられるか――年下の者達は年上の者達に色々と教えてもらっていた。
この日の冒険も、いつもどおり終わるはずだった。だが帰る途中でルードがウサギを見つけ、ケルンの制止も聞かずに追いかけ回したのがいけなかったのだ。結果、彼はひとり道に迷ってしまった。子供の頃から何回もムニケスに来ているのだから自分はひとりでも大丈夫だ、という思い上がりが足下をすくい、そして今のにっちもさっちもいかない状況に至っている。
春を迎えたとはいえ山の気候はまだまだ冷涼としている。それなのにルードの顔には汗が流れ、まっすぐな濃紺の髪がはり付く。それは彼のこれまでの苦労を描いているようだった。しかし、どんなに歩いても事態はいっこうに良くなる気配を見せない。
疲れ果てたルードはついに歩くのを止め、近くにあった切り株大の岩にどすんと腰をかけた。二刻《こく》はゆうに歩いたはずだが、ルードがさまよっているのは未だに、草木がうっそうと茂った山のなかである。けもの道すら周囲には存在しない。あるのはただ樹木と、草、草、草――。
ルードは大きくため息をはく。
(みんな心配してるんだろうなぁ)
歩いている最中、何度も頭をよぎった思いが今さらながら強くのしかかる。
どこからか吹いてくる木々の匂いを含んだ風が、汗を拭い去る。ルードは岩肌に両手を置き、天を仰ぐような姿勢で呆然としていた。しばらくそうやっていた彼だが、やおら立ち上がり、地面に横たえていた短剣を腰の鞘に戻す。
[ええい、行くぞルード!]
大声で喝を入れ、再び歩きはじめる。誰かが今の声を聞いていてくれないか、そんな期待もどこかに持っていたが、そううまく運ぶはずもなかった。
それから茂みの中を一刻ほど歩いただろうか。ルードは日が完全に傾いているのを感じていた。じき夕暮れを迎える。それまでに何としても自分の知っている所に着かなければ――!
ルードは夜の山を知らない。大人の羊飼いや木こり、猟師達すらも夜にはめったに近づこうとはしない。どんな獰猛な動物が徘徊しているのか分かったものではないし、暗がりの中では足下もおぼつかない。足場が崩れるような危険な所にいつ入り込んでしまうか知れない。
そういう現実的な怖さと、そしてルードが小さい時に聞かされた、現実ではあり得ないような怖い話。その二つが交互にルードの胸に去来し、彼は自然と足を速めるのだった。
ふと、彼の耳にそれまでとは違う音が入り込んできた。囁《ささや》くような、そして透明感のある音。
(これは……水の音? ……川のせせらぎか?)
やがてその囁きは、ぶつかるような激しい音へと変貌した。
(滝だ!)
ルードは疲れを忘れたように走り出した。自分が知っている滝の場所からなら、失った方向感覚もよみがえるだろう。川の流れを辿って、ムニケスを降りられればなおよい。木々の隙間からは、ちらちらと小川の流れが見える。そしてルードはついに、開けた場所へと出た。
いくつもの大岩に囲まれた開けた場所。岩の頂からはごうごうと音を立てて滝が流れ落ちている。そこから水がしぶき飛び、周囲を冷やす。そして川の向こう岸は、ルードにとって憶えのある情景だった。
[よかった。ここは“大岩の滝”だ!]
ルードは安堵した。ここは五年前はじめて、シャンピオと来た所だ。ルードにとって最初の冒険だったため、この場所は印象深い。森という閉鎖された空間から解放される場所だ。それからたびたび足を運ぶようになっている。ここからなら半刻もあれば村に帰れる。彼は陰々滅々とした気分から、ようやく解放された。
冷涼な風が滝壷のほうからそよいできている。ルードはその心地の良い風を肌に感じながら、川岸のほうへと歩を進めた。せせらぎに手を浸すと、雪解けの水はやはり冷たい。ルードは水をすくって、汗まみれとなった顔を洗い、清水を飲んだ。十分過ぎるほど川の水を飲んだルードは靴の紐をゆるめ、分厚く大きい靴を脱いだ。
[ひゃあ!]
両足を川に浸したルードはその冷たさに思わず声をあげた。ルードは疲れが癒されていくのを感じた。
しばらく裸足のままで川岸に座っていたが、やがて彼はのろのろと靴を履き、おもむろに立ち上がった。軽い足取りで岩をまたいで川を越えて、馴染みの路《みち》を歩き出した。このまましばらく行けば開けた野原に出る。
(そこでちょっと休んで……帰ろうっと!)
ルードは手近にあった木の枝を三本折り、道の真ん中に突き立てると、その周りを小石で囲んだ。年上から教わった『迷ったけれども無事に帰っている』という合図だ。ケルン達もこれで安心するだろう。この路を通って降りてくるのは間違いないのだから。
[ふうっ……]とため息一つ。
[……ずいぶんと迷惑かけちゃった、だろうなぁ]