フェル・アルム刻記
合図をつくり終えた彼はつぶやき、再び歩き出した。
* * *
野原には、高原の春をつかさどるさまざまな種類の花が咲きこぼれていた。休息を取る場所としては格好だ。夕方まで少し時間がある。ここで待っていればケルン達に会えて、その場で謝れる。
そう思い、座りこもうとした時――彼は今まで感じたことのない、まったく奇妙な感覚にとらわれた。
[な、何なんだ?]
不安と期待と恐怖と暖かさとが混在した、何とも言えない感覚だった。彼は周囲を見る。そう離れていない所に、人が仰向けに倒れているのが見えた。彼の足は自然とそちらに向いた。
それは、少女だ。
だがルードには、彼女がただ単に倒れている、というようには見えなかった。不自然なことに、彼女の衣服と髪の毛は上に向かってなびいている。その違和感に惹かれるように、ルードはふらふらと近づいていく。
(髪の毛が銀色だ……)
ルードは少女のすぐ側までやってきた。そこで彼は気付いた。少女の周囲の空間が、尋常ならざるものだということに。
『空《クウ》』。
――全く何もないもの。その空間は、まさにそれだった。あたりの風景をいびつに歪めて存在する『虚空』。
そして、全ての風景は変貌した!
(な……に!?)
とっさ、状況が飲み込めなかった。周囲の景色が野原から一変し、別の場所となっていたのだ。次にルードは、自分の足が地面と接していないのを知った。落下しているのだ!
激流のように上へ上へと流れていくのは岩の壁。遥か下に広がるのは漆黒の闇。何も見えない。こんな場所はルードの記憶にはない。唯一確かなことは、奈落の底へ向けて落ちていっている、ということ。その先にあるのは――死。
[おわぁっ!]
状況を現実のものと飲み込んだ時、ルードはようやく悲鳴をあげた。死の恐怖が彼を包みこむ。それと相反するように、自分が生きているという証拠――全身をものすごい勢いで流れる血潮を感じた。
(もう……だめだ!)
そう思った刹那、流れゆくあらゆるものが、緩慢に見てとれるようになった。
ルードの真横には、あの少女がいた。わずかに紫がかった銀色の髪。気を失っているのだろうか、両の目は閉じられているが、ややあどけなさの残る端正な顔をしていた。服は清楚な感じのする淡い空色の上衣と、その下に着ている赤紫色の服。袖と皮ベルトの部分は、深く奇麗な赤紫をしている。そしてすらりと伸びた肢体。肌はルードより白い。
ルードは詳細に彼女の容姿を見てとった。
(きれいだ……な)
彼の右手が彼女の腕をとらえようと伸びる。意識が薄れていくのを感じながらも、彼の右手は少女の腕をつかんだ。
瞬間!
太陽を百も集め、一点に凝縮したかのような閃光がはじけ、二人を包んでなお膨らんでいく。ルードの身体に、さまざまなものが洪水のごとく襲い掛かってきた。――彼の見た情景。彼の知らない情景。存在しうるあらゆる種類の音。五感全てを洗い流そうかとする、膨大な情報の波――。光の玉に包まれたルードは、忘却の世界の彼方へと赴いていくのだった。
* * *
ルードは夢を見ていた。四肢の感覚が無く、意識が薄れている中にありながらも、これは夢だと自覚した。
[ルード!]
親しい声が彼を呼んだので、ルードはそのほうを振り向いた。森に囲まれた野原の入り口でケルンが待っていた。
[ほら、あれを見てみな]
ケルンの指差す先は崖となっており、そこからクレン・ウールン河の流れゆくさまと、その先の海、一日の寿命を終わらせようとしている真っ赤な太陽が見て取れた。赤い陽は彼らのいる草原まで朱に染めている。ルードはこの風景を眼前に収めようと、崖のほうまで近づいていった。いつのまにか周囲の森は消え失せた。
[どうだ、やっぱり奇麗なもんだろ、夕日ってのはよ!]
ケルンは今度は崖の前に立っていた。ルードの従姉のミューティースがケルンの横にいた。
[ほんと、どうしてこんな見事に赤いんだろうな!]
ルードも素直に感想を洩らす。
[もし夕日が赤くなかったら、どう思う?]
[そうだな。例えば夕日が、緑色になったりしたら気味が悪いよな。……でもさ。本当に夕日の色が緑色になったとしても、俺は不思議だとは思わないぜ。だって常識なんて、俺達が勝手にそうだと思いこんでるもんだろう? 明日も絶対に通用するなんて、誰も分かんないさ]
ルードはケルン達に答えた。
その途端、視界一面に濃い霧がかかったかのように、ケルン達の輪郭がぼやけて来た。やがて全ての様相は交じり合い、一つの色をなす。それは混じり気無しの白。その白い世界の中、やがてルードはひとりいるのに気付いた。
ぷつりと、ルードの夢は途切れた。彼の身体は白一色の世界の中を飛んでいく。廻りはじめた運命とともに。