「既遂・第2章」
「おや、朝から私を誘惑なさるなんて……貴方もようやく私の魅力に気づいて下さりましたか。それは喜ばしい。ふふ。幸運なことに、私ももう臨戦態勢をとっています。さて、どう致しましょう? せっかくこんな体勢をしていますし、貴方が私の上に乗られますか? こんな真昼から腰を揺すって喘ぐ貴方の姿を見られるとは……ふふふっ」
「苦労はしたが、機嫌がいいようで助かった。だが、こちらの話も少し聞いてもらおうか」
「ほう。受けるよりは、攻める方がいいと、そう仰いますか。ふふ、まあ、それもいいでしょう」
「いいから黙って聞いてろ」
ディストの口調と声色から事の深刻さを察知すると、真面目な顔に切り替わり、近くにある眼鏡を手に取って掛ける。
その間に、ディストはベッドから降り、床に倒れていた椅子を拾い上げ、行儀悪く胡坐をかいて踏ん反り返ると、一連の騒動の話を始めた。
セルビアとキースが登校中に吸血鬼に攫われたこと。
誘拐犯は人間ではなく吸血鬼であるため、アルヴァージュの人間の持つ、大魔術の力を危ぶんだものであると推測されること。
また、どこかに連れ去られ、一部の王国師団と自警団が捜索に当たっているが、いまだに行方が分からないこと。
――魔術の使えない自分では、きっと太刀打ちできないだろうということ。
「だから、ヴァレス。お前にも協力してほしい」
「あなたには一応、吸血鬼を探査する力、消滅させる力がないということではありませんが、数が多いことに越したことはありませんね」
そう頷いた後、深刻な面持ちで、しかし、と接続詞が続ける。
「大体の話は分かりましたが、ラインドール家とは、あの没落貴族の家のことでしょうか? あの家の者に魔術や法術の素質なんてあるのですか?」
「ラインドール家始まって以来、初の大魔術の素質持ちらしい」
「ふむ、そうですか……」
「どうした? 何か腑に落ちないことでもあるのか?」
「いえ。まあ、彼が大魔術の素質を持っているとするならば、早々と葬り去った方が、奴らの身のためでしょう」
「それでも、主の命を救うのが、俺たちの役目だろう」
「ふふ、格好いいですね。でも、屍霊術で人の命を救う術は発見されていませんよ。落ちぶれた研究者が、永遠の命を手に入れるために命懸けで研究中です。いくら私が天才だとは言え、無理難題を押し付けないで下さい」
「勝手にセルビア様たちを殺すな。まだ死んだと決まったわけじゃないだろう。行くぞ」
怒りに任せて、椅子から立ち上がり、突っ慳貪な足取りで部屋を出ようとした。
待って下さい、とベッドのに座っているヴァレスに引き止められると、焦りと苛立ちが募り、むっとしながら後ろを振り向いた。ヴァレスがきょとんと首を傾げ、こちらを見ている。
「どちらに?」
「セルビア様の元にだろ」
「そうではなくて。ふふ、何の検討もついていないのに、あなたは私の力を借りようとしたのですか?」
闇雲に街の中を探し回るつもりでいたため、セルビアのいる場所など、皆目検討も付かなかった。
言われてみれば、確かにそうだ。半人半鬼には吸血鬼を探知する能力が備わっているとはいえ、キリュウの王都は広い。それに、貴族街を出た貧民街やスラム、打ち捨てられた古い港は物騒だと噂されている。吸血鬼が身を潜めるにはうってつけの場所だろう。虱潰しに探していては日が暮れてしまう。
冷静さを失っていた自分自身に、少し気恥ずかしさを感じながら、言葉を詰まらせる。
「……そ、その、天才で頭脳明晰なお前なら、何か分かると思ってな」
「ふふ、分かっていらっしゃいますねぇ」
苦し紛れに出た言葉だが、どうやら上手く騙されてくれたようで胸を撫で下ろしていると、ヴァレスはベッドから降り、すぐ傍のライティングデスクの取っ手に手を掛けると、引き出しを開き、ぐちゃぐちゃと探し物を始めた。どうやら、何かを探しているようだが、何か策でもあるのだろうか。期待と不安を感じながら、その様をまじまじと傍観して待つ。
「見つかりましたよ」
こちらを振り向いたヴァレスが手にしていた代物は、少し大きめの手鏡だった。
随分と贅沢で華美な装飾が施されているが、鏡の部分は手入れをされていないのか、白く曇っている。埃がかぶっているだけなのかと思い、ヴァレスから受け取って、指先で軽く払ってみると、なぞった箇所が水面のように揺れている。
きっと何か特別な能力があるような、そんな予感がした。
「普通の鏡に見えるが、こんなもの、何に使うんだ?」
「こんなものとは何ですか。これは“水鏡”と呼ばれる大変な貴重な代物です」
水鏡。
吸血鬼一族の宝と云われていた代物。
人間と吸血鬼の戦で使われ、長きに渡り、吸血鬼に勝利を齎していたとされていたという。
しかし、アルヴァージュ家が大魔術発見したことにより、水鏡の齎していた力は遠く及ばなくなり、やがて人間側が勝利を収めた。
再び吸血鬼が力を手にし、人間を襲わないよう、彼らから水鏡を奪い取り、代々王族が大切に守っていたとされている。
そういえば、数年前に盗難に遭ったとも聞いていたが、王国の秘宝と呼ばれるようなものが、こんなところにあるとは思いもしなかった。
まさか、ヴァレスが――いや、彼はただの闇医者で、ただの商人のはずだ。王城に踏み入ることができるような身分ではない。ならば、盗人から買ったのだろうか。謎は深まるばかりだ。
「……王国の宝物庫にあったものが、何でこんなところに?」
独り言のつもりであったが、ヴァレスにも聞こえてしまっていたようで、今度はヴァレスが気不味そうに顔を顰める。
「今はそういう野暮な話はよしましょう。セルビア様をお助けすることが優先でしょう?」
言葉を濁されたことに、少々複雑な思いを抱いたが、今は何も聞かなかったことにしておく。事が終わったときにヴァレスに問い詰めればいいだけのことなのだから。
「で、これを何に使うんだ? 普通の鏡に見えるが……」
「まあ、黙って見ていて下さい」
言われた通りにしていると、曇った鏡は次第に明瞭さを増していき、やがてはっきりと鏡面を映し出した。
鏡の中の水面に浮かんだのは、多くの古めかしい腐りかかった木箱が積み並べられてている、打ち捨てられた倉庫の一室だった。
この一室にある小さな小窓からは、廃工場が見える他に、陽光に照らされて燦然と輝く青い海と、帆の破けた船が何艘か波止場に止まっているのが分かる。
かつて、ここは賑やかな港であったのだが、吸血鬼が船乗りを襲ってからというもの、船が出せなくなり、廃れ始めてしまっているらしい。そのため、潜伏するにはちょうどいいのだろう。
「王都南の港にある廃工場のようですね」
「その鏡は人間や吸血鬼を探すための道具か? 俺の探査よりも随分と利くな」
「ふふ、これを使えば、吸血鬼だけでなく、普通の人間やあなたがどこにいるのかもお見通しなのですよ。便利な代物でしょう?」
「そ、そうだな……。しかし、使われていない工場か。吸血鬼の好みそうな、陰湿で陰気な場所だな。使わないなら、早々に取り壊せばいいものを」