「既遂・第2章」
(――命を、奪うのか?)
躊躇。
初めて命を奪うことへの、躊躇。
それがたった今、セルビアの脳裏に流れ込んできたのだ。
(あいつは、敵だ。滅ぶべき存在だ。でも、生きている。人間と生きられる尺度は違えど、同じ、命がある……)
吸血鬼。
容姿は人間に近しいが、長く尖った耳、鋭く伸びた牙、金剛石ですら切り裂きそうな爪。
彼らは、人間じゃない。人の形をした、人の命を喰らう、鬼。
人間ではなく、人類の敵だ。
記憶を失くしてしまっても、平穏な日常を奪い去った鬼の、禍々しく恐ろしいあの姿を忘れることができない。
自分も、そんな風に、命を奪うのか。
何か意思を持って生きているのかも知れない、あの鬼を。
(奴の事情なんて知らない! そう、ヤツは敵だ、敵なんだ! 何もしていない無実で無害な奴らを傷つけた悪玉だ! そんな奴は死ねばいい!!)
躊躇と狼狽が混濁し、身動きが取れなくなっていると、背中に何かのおぞましい存在の気配を感じた。
人間ではない。それはすぐに分かった。
だが、それはきっと吸血鬼でもないだろう。
ならば、それは一体何なのだ。
その正体を確かめるべく、後ろを振り向く。
視界を埋め尽くすほどの漆黒と、鼓膜と脳を支配するけたたましい鳴き声と羽音。
躊躇と狼狽。そして、畳み掛けてくる不安と恐怖。
激しい動揺の中、セルビアはいつしか完全に動けなくなった。
術式を記す指も、詠唱を唱える唇も、恐怖に打ち震えている。先ほどまでの自信が嘘のように。
混乱しきった頭に、後ろから打ちつけられた感覚があった。
だが、それがあまりにも強い痛みだったのか、逆に痛みは感じられない。
意識が薄れていく。
それなのに、なぜかとても安心しているのは、どこかで自身の死の可能性を感じたからだろうか。
意識が、深遠の根底に飲み込まれて、薄れていく。
そっと目を閉じて、思う。
誰も殺さずに、罪を背負わずに、見知らぬ誰かの十字架を背負わずに。
(――みんなのところに、逝ける……)
王都で吸血鬼が馬車を襲撃したという事件は、この街外れの森にもすぐに届いた。学園の伝書鳩が知らせを届けてきたからである。
広い食堂の掃除をしていたため、大きな窓をいくつか開いていたのだが、そのうちの一つから、その鳩はディストの元へ舞い降りてきたのだ。
この対人魔術で作られた鳩は、受取主の元へ届くと手紙の形に変化する。そして、受取主が中身を確認すると、外部に情報が漏れないよう、すぐに光の粒子と化して消える。
なお、鳩の色によって、事の重要度が異なり、最重要とされる鳩の色は、赤色とされていた。そして、今、ディストの手にとまった鳩の色は、赤だ。
焦燥感に駆られ、居ても立ってもいられない状態のまま、丁寧に折り畳まれた手紙を乱雑に広げると、そこには、吸血鬼に誘拐された二人の生徒の件が書かれていた。
そこにセルビア様がいないことを願いながら読み進めていたが、無情にも、そこにはアルヴァージュの名があった。思わず、愕然として、暫し言葉を失う。
「まさか、セルビア様が巻き込まれるなんて……」
そんな独り言を漏らし、呆然と窓辺で俯いて悲嘆していたが、主を見捨てることはできないと、顔を上げる。
すぐにでも出立したいところだが、自分ひとりの力でどうにかなるとは思わない。味方は一人でも多い方がいいと、掃除道具を適当な壁に立て掛け、つけていた赤茶色のサロンエプロンをテーブルの上に外した。
重たくも速い足取りで向かった先は、医務室だった。
部屋の前に辿りつき、一呼吸したあと、軽く扉を叩いてみたが返事はない。きっとまだ眠っているのだろう。
もう太陽が空の真上を昇る時間にも等しいというのに、吸血鬼の自分よりもよほど吸血鬼らしい生活をした人間だと感じながら、次は強めに扉を叩く。またしても返事はない。
だが、扉の鍵自体は開いたままのようで、部屋に入れないということはない。事が急を要することもあり、こんなところで足止めを食らうわけにも行かず、失礼だと思いながらも、扉を開こうとノブに手を掛けた。
しかし、その扉も一筋縄ではいかない。どうやら、相変わらず部屋は散らかっているようで、恐らく、大量の本が部屋の扉を塞ぐバリケードとなっているのかも知れない。
本の場所が変わっているということは、あれから少し整頓をしたようではある。しかし、とても手に負えない量だと判断して、諦めて寝たのだろう。なるほど、彼らしい。
うんざりとしながら、少し力を入れてドア越しに本を押し退けると、ようやく扉が半分ほど開いた。
自分が十分に入られるほど開いたところで、部屋の中へ一歩踏み込むと、埃と黴、そして、消毒液の独特な臭いがつんと鼻腔をつく。
ざっと辺りを見回してみたが、相変わらず、本が部屋のいたるところに散乱している挙句、先日のいざこざの際に倒れた椅子は、まだそのまま放置されていて、元の位置に戻されてすらいなかった。
この件が終わったら、片づけを手伝ってやるしかなさそうだと落胆しながら、部屋の中で、唯一片付けられていたベッドの上で眠っている男を見遣る。
睡眠は大事だと思っているのか、そうでない別の理由があるのか、眠る場所だけはきちんと掃除がなされていて、枕元に本が一冊ある以外は、特に何も物が置かれていなかったため、起こすのは実に容易だった。
それにしても、よくもこんな散らかった場所で穏やかな寝息を立てられるものだと、違う意味で感心を覚えながら、床に鏤められた本を跨いで、ベッドに近づく。
やっと彼に触れられる位置に辿り着くと、肩を大きく揺さぶって叩き起こし、仰向けで眠っている彼の名前を呼んだ。
「おい、ヴァレス」
不快そうに寝返りを打ち、うつ伏せの状態で再び眠りに就こうとする。
低血圧で寝起きが悪いから起こさないでほしいとは聞いていたし、過去の経験上、この程度は序の口だ。
どうしたものかと頭を抱えるも、ここでおめおめと引き下がるわけにもいかない。何せ、主の一大事なのだから。
かわいそうだとは思ったが、荒々しく乱暴に布団を剥ぎ取り、窓とカーテンを開け放つ。まだ冬の寒さが残る肌寒い朝だ。これなら一溜まりもないだろう。
そうして、しばらく見守っていたが、身体を温めるように、身を縮めただけで、びくともしない。今日の寝起きの悪さは、いつもに増してひどいようだ。
(……なるべく穏便に行きたかったんだが、もう手段は選んでいられないな)
最後の最後まで、躊躇いを捨て切れなかったが、医務室には不似合いなキングサイズのベッドに乗り込み、ヴァレスの身体の上を跨いで腹部に腰を落とす。
寝返りを打とうにも身動きはとれない。ゆえに、起きざるを得ない状況に陥らせようという戦法だ。
不機嫌な声を上げた後、気だるげに身体を起こそうとしたが、寝ぼけ眼が今の状況を理解すると、口元が上機嫌に上向く。