「既遂・第2章」
いや、厳密に言えば、余裕がないわけではないのだが、万が一のことを考えて温存しているのである。にも関わらず、この屋敷に馬車が遣わされることになったのは、セルビアが初めて大魔術を発見、発現したアルヴァージュ家の末裔であるため、遜っているためだろう。
ありがたいことではあるが、きっと自分がセルビアの立場ならば、学校側からの期待で押し潰されていたかも知れない。
そんな下らないことを考えて、小さくなっている自分に対し、真新しい制服を纏い、しゃんと胸を張って、隣に立っているセルビアがとても誇らしく見えた。
そして、ついにこの日が来てしまったのか、という、複雑な思いが募る。
「どうした? そんな情けない顔をして」
「……いえ」
「……主の門出だぞ。もっと喜べ」
そうは言われたものの、自分の死が近づいているのかと考えると、素直に喜ぶこともできない。
結局、自分は曖昧で、中途半端で、セルビアへの罪を購うために死ぬと決めたはずなのに、決意は揺らぎきってしまっている。
胸の奥で溜め息を押し殺していると、鞭の撓る音と馬を叩きつける高い音が耳に響いた。それに馬の嘶きが続くと、二人の目の前に数十人の学生を乗せた車が止まった。
慣れた足取りで、爪先に乗せていた鐙から地上へ降り立つと、目深にかぶっていた帽子を取りながら、男がゆっくりとこちらへ向かって来る。
「お初にお目にかかります。アルヴァージュ様」
目の前に姿を見せるやいなや、深々と一礼をし、乱れた白銀の前髪を耳に掛けながら顔を上げて、愛想よく微笑んで見せた。
その冷たい印象を与える髪の色とは違い、彼の持つ真っ直ぐな金色の瞳が、どこか優しくて柔らかい。彼を形容するのならば、春の麗らかで暖かな日差しが齎す雪解けだろうか。瞳を見ただけで、この青年の育ちのよさや物腰の柔らかさ、生真面目さが窺える。
「もうすでに存知あげていらっしゃるかとは思いますが、我々ラインドール家は、あの事件以降、国に従事する人々への信頼を取り戻すため、この国の将来を担う大魔術師様の命を、一時的にお預かりして――」
ラインドールという名前は、どこかで聞いたことがあるような気がした。
聞いたことがあるというよりかは、本か何かで名前を見たことがある程度で、実際に会ったのは初めてである。
しかし、学校へ送り迎えを担う家があるということは初めて聞いたので、恐らく何かの勘違いだろう。確か、あの本には城に関わっていた役職……詳しくは思い出せないが、そう記されていたはずだ。
それよりも、彼の言う“あの事件”というのも引っかかるが、入り組んだ事情に部外者が首を突っ込むのは野暮だ。
「そういう挨拶はいいよ。確かにあの事件は大変だった。お前もそれを身に沁みて感じることもあって辛いだろう。けど、その騎士とお前は違う。お前が気負うことはない」
などと、気楽なことを考えていられたのも束の間、セルビアのその傲慢不遜な発言に、全身から嫌な汗が吹き出した。
初対面の相手、ましてや年上の人間に対して、大柄で高慢な態度を取った主を叱って窘めるような勇気を持てず、心臓が緊張で破裂しそうになるのを感じながら、彼のぎょっとした表情を窺う。怒っているのか、微かに握っている拳が震えているではないか。
この空気の流れをどのようにして和やかにするか、思考回路を張り巡らせていると、言葉を失って黙りこくっていた青年の表情が、唐突に青褪め、途端に動揺の色に染まる。
ついに怒りを通り越して、落ち込ませてしまったのではないかと、慌てふためいていると、青年は大きく息を吸って、再び深く頭を下げる。
「そんな、勿体無いお言葉! 曽祖父と同じ血の流れる私には、相応しくありません……!」
一息で早口にそう言ってから、頭を下げたまま、唇をきつく噛み締めて俯く。
恐らく、世間的には、社会的には、彼の返した言葉は正しいのだろう。
だが、セルビアがそれを正解とするか否かと問われれば、それは後者に違いない。
「はぁ……もういいよ。それより、お前、名前は?」
おずおずと頭を上げていたが、上目でセルビアの呆れ返った表情を一見すると、再び深く頭を下ろす。
「っ、失礼致しました! 大魔術科四年、キース・ラインドールと申します! どうかこの度重なるご無礼を、お許し下さい!」
相手は大魔術の名家、アルヴァージュ家。
さらに、自分よりもいくつか年下の少年ときている。
きっと、彼なりに謙遜してはいるつもりなのだろうが、彼もまた、育ちのいい人間だ。自分よりも目上の人間相手に、どう対応すればいいか分からず、戸惑っているのだろう。
焦燥している彼の姿を一瞥もせず、セルビアは、ふぅん、と、小さく呟く。
「お前も大魔術師か――そっか、ラインドール家にも素質持ちがいたんだな。まあいいや、四年間よろしく頼む」
「……は、はい! よろしくお願いいたします!」
何かに驚いていた様子を見せながら、馬車の中へセルビアを促すと、何人かの生徒が乗る馬車の中へと消えた。
一瞬だけ馬車の中が見えたが、いかにもお金持ちの子息と令嬢の集まりだ。身なりだけでなく、顔立ちにもその体貌が漂っている。
だが、その中でも、魔術の名家と謳われ、讃えられているアルヴァージュ家は、良い意味で異彩を放っているように見えた。
アルヴァージュ家が持ち合わせている威厳なのか、それとも、ただセルビアの自尊心の高さを知っているからか、王者の風格とも言えるオーラが感じられたのだ。
「セルビア様、お気をつけて行ってらっしゃいませ」
「……入学式に参列するだけだ。別に吸血鬼を戦うわけじゃないだろ。お前さ、あんまり心配しすぎると早死にするよ」
セルビアが深く溜め息を吐くと、キースに向かって馬を出すように手で合図を送った。その合図を受け、やや気不味そうにディストに一礼をすると、キースは飄々と騎乗し、馬車を颯爽と走らせた。
だんだんと小さくなっていく馬車を見送りながら、取り残されて孤立したディストは肩を竦めて、呆然と立ち尽くす。
脳裏に、昨夜読んだ新聞の記事の内容が渦巻く。ああ、またセルビアの言う“寿命”を縮めてしまったのかも知れない。そう思うと、何とも言えない笑みが漏れた。
街中に馬車馬が闊歩する音と朝を告げる鐘が鳴り響く。多くの街人が道を行き交っていて、中には魔術学校の入学式に赴く馬車の闊歩する光景も見られた。
普段、屋敷にこもりがちで、街にあまり来ることがなかったセルビアにとって、馬車の小窓から見える活気の溢れる街の風景が、とても新鮮で、どこか懐かしい。
瞳を閉じれば、瞼の上に浮かぶ、薄らと残されていた記憶の中にある情景は、楽しげで、華やかであるが、微かに歪んでぼやけている。
だが、それを寂しく思うことはない。なぜなら、自分の知らない、見たことのない新たな世界に、幼気なこの子どもの心は躍っているからだ。
(王都は、こんなにも素晴らしい街だったのか……)
あまりの昂奮に、感動して思わず、歓喜の声を上げそうになったが、アルヴァージュの名を辱めるわけにはいかないと感情を押し殺す。落ち着きのない餓鬼だと、舐められるわけにはいかない。