「既遂・第2章」
思わぬ反応に、一驚を喫していたが、ずっと埃塗れの床に仰向けになって寝ているわけにもいかず、起き上がろうと手の平を床につく。
今更になって、後頭部を打ち付けた痛みに襲われたが、そんな瑣末な痛みよりも、こちらに向かって、沈痛な面持ちを向けながら手を差し出してくるヴァレスが心配で仕方がなく、なんだか猛烈に悪いことをしたような気分に苛まれた。
「……悪い」
「いいえ」
そうやって静かに首を横に振って否定したものの、ヴァレスはディストの腕を強く握り締めたまま、俯いて黙りこくっている。
そんな彼の手を振り払うこともできず、重苦しい空気が自然に流れ去るのを、気不味い顔をして待っていると、突然強い力で引き寄せられ、再び全身が彼の腕の中に、すっぽりと納まった。
油断した。
そう思ったのも束の間、次の瞬間には、勢い任せに口付けられていた。
好き勝手に弄ばれていたが、絡められた舌先にわずかな血の味を感じただけで、ぷつりと自分の中の糸が切れた。
自ら舌を噛んで作った傷なのか、崩れ落ちたときの衝撃により生じた切創なのかは分からない。だが、今のディストにとって、そんな些細なことなど、どうでもよい。
今はただ、今の状況を、あるがままに受け入れたかったのだ。
だが、自分に内のどこかどこかに棲みついている冷静な自分自身の脳裏に、ふつふつと浮かび上がる思いを、感情を表す単語にするならば。
――悔しい。
ああ、それだ。それが相応しい。
喉の奥から這い上がってくる思いを、人と鬼の狭間に捕らわれている自分を、唾液交じりの血を飲み込むことで殺していく。
今更、湧き上がってくる悔しさを吐き出したところで、飲み込んだ血が戻ってくることはない。
だから、今はこの渇望に対して、貪欲に、欲望に身を任せればいいだけのこと。
赤い血液という極上の馳走を持ったこの男を、この手から逃さぬよう、ただ強く抱き締めて、血を頂戴すればいいだけのこと。
そうだ、冷静になる必要が、どこにあるというのか。そんなもの、どこにもありはしない。
けれど、自分はどちらになりたいのか。
人なのか、鬼なのか。
素直になりたいのか、そうでないのか。
自分の本音は、本心は、この身体の、心の、どこにいる?
答えのない、取り留めもない疑問が、ぐるぐると駆け巡る中、第三の自分が叫びかけてきた。
――生きたい、生きたい、と。
傷から溢れる程度の血では不足を感じ、長く鋭く伸びた牙で、彼の口内を強く噛んだ。鉄の味が滲み出る傷口に舌を捻じ込み、生への渇望を満たしていく。
その渇欲が充足してくると、絡めていた舌を解いた。ディストの舌先には、今もまだ微かにその味が残り、口端や唾液が薄らと赤く染まっている。
「……まさか、あなたに唇を奪われただけでなく、淫らに掻き乱されるとは思いもしませんでしたよ」
ディストが掬いきれなかった血を服の裾で拭いながら、やはりどこか悦に浸って笑っている。
ディストはというと、渇欲が満たされたことで、急激に先ほどまでの熱がすっかり冷めきってしまい、虚心坦懐の境地にいた。ヴァレスの戯言に調子を狂わされるのが嫌で、強引にヴァレスの両腕を振り解き、その場に情けなく腰を下ろす。
「貴方にとっては、ただの食事に過ぎないのかも知れませんが、私にとっては性交渉の前戯のようでしたよ……って、何です、その顔は。まったくつれないですね。満足いただけましたか? 私は少しばかり痛かったですけど」
ディストに引っ掻かれた傷口を手で押さえつけたヴァレスに、無愛想に五月蝿いと返事すると、前髪をくしゃりと掻き毟り、長い溜め息を吐いた。
心弛も束の間、その息を吐くという行動にはっとし、勢いよく立ち上がって、周囲を見回す。
「もう、忙しないですね。どうしたんです、急に?」
「……俺の煙草、消してなかったはずだ!」
「大丈夫ですよ。ほらそこ、少し床が燃えただけで、もう灰になっています」
ヴァレスが指差した先の床板は、少し真っ黒になっただけで、火は消えていた。
それを目視すると、疲労と安堵で脱力し、情けなくその場に崩れ落ちる。
「……これからが大事なときだっていうのに、屋敷ごと心中するつもりか」
「おや、それもまた一興ですね」
「ふざけるのも大概にしてくれ……」
「ふふ。明日は雨ですかね。荘厳たる入学は明日に迫っているというのに、あなたのせいで台無しですね」
何で俺のせいで雨が降るんだと反論するような元気もなく、もう好きなだけ言わせておこうと、近くにあったベッドの脇にずりずりと凭れ掛かると、自分を陥れた丸い光を、ぼんやりと眺める。このほんの数十分の間で、少しばかり沈んだように思う。
望んでも、望まなくても、明日は訪れる。誰にも、平等に。
希望の朝が、人によっては、絶望の朝が、時計の針の音を刻みながら。
俺は、死ねるのだろうか。思わず、そんな言葉を口走る。
「今はそんなことを考えるのはやめましょう。あくまで、死は可能性です。もしかすれば、生き残れる可能性も充分にあります」
「主に殺されることでしか、俺の罪は購えない」
ディストの隣に座って寄り添うと、小さく肩を竦める。
「本当、あなたという人は……物事を悲観的に考えてしまいがちなのが、玉に瑕ですね」
「性分だ。放っといてくれ」
主のために死にたい。だが、生きていたい。
まだ、死にたくない。もう一度、あの人に会うまでは。
自分の欲深さには、満たされない渇きには、つくづく嫌気が差す。
「ん、どこかで聞いたようなやり取りですね? これは、先ほどと同じようなことを、今からまた繰り返す切欠になりますでしょうか?」
「……勘弁してくれ。俺はもう寝たい」
「寝たい、ですか……ふむ、それでは、次はベッドの中で致します?」
腕に抱きついてきたヴァレスにいちいち反応を示すのも億劫になり、受け入れることも拒むこともせず、ただ呆然とする。
今、この胸の内には様々な思いが渦巻き、混濁しているが、今はヴァレスの言う通り、考えることは止めておく。たまには、この気楽で無神経で、常に大胆不敵なこの医者に倣うのも悪くはないかも知れない。
この心臓に毛の生えたような図太さが、度胸が、自分にもあれば。
うつらうつらとそんなことを考えていたが、今度は睡眠欲に押し倒されてしまっていた。
次の朝。
無理な体勢で眠ったからか、少しだけ身体が軋む。
ベッドが空いていたのだから、そこで眠ればよかったというのに、ヴァレスが肩に凭れ掛かって眠っていたためか、どことなく右肩だけが異様に張っている。まあ、この程度の痛みなら一日もすればひくだろう。
起こさないようにそっと立ち上がると、隣で眠っているヴァレスに布団の上から、毛布を取り出して掛けてやる。そして、なるべく物音を立てないよう、静かに部屋を後にした。
それから、一時間半ほどして、学校へ送迎するための馬車がやって来た。
この乗合馬車は、入学時に入学金の他、ある一定の資金を納めた家の生徒にのみ遣わされるものなのだが、アルヴァージュ家が残した限りある遺産で過ごしている彼らには、その余裕がないため、その資金を学校に納めてはいない。