「既遂・第2章」
人間に例えるならば、月経前の人間の女性に起きるPMSとやらの症状に酷似しているらしい。尤も、そのPMSですら、原因が詳しくは判明していないとのことだが、その言っている言葉の意味の大半は理解できなかった。
先ほど、つい口走ってしまった独り言が聞こえたのか、はたまた、苦悶の表情が露骨に浮き出てしまったのか、そういえば、と、ヴァレスが話を始める。
「あれからまた、あの原因を調べてみましたよ。あなたの身体と月の関係を」
億劫に感じながら、ちら、とヴァレスを見遣る。少し首を動かすことですら、なんだか気だるい。
「確実ではないのですが、かつてこの国に存在し、絶滅したという狼人と純粋な吸血鬼が交わった結果、このような現象を持つ吸血鬼が生まれたと書かれた文献が残っていました。さすが、アルヴァージュ家の書庫ですね。王立図書館には敵わないものの、それでも貴重の書物がたくさんあります」
「……で、何だったんだ」
「ああ、失礼。狼人は分かりますか? 彼らは学名リカントロープ。かつて、自らをパルフェル族と名乗っていた人種のことです。キリュウ王国と旧グロテリア王国の国境付近にかつてあった村――今でいう、王国三軍の兵を養成するための士官学校があるメルセデスの街の外れにある森辺りですね。そこでひっそりと暮らしていた少数民族のことです。彼らは、満月の夜に人間から狼の姿へ本能的に姿を変えたというのは有名な話で……って、聞いてます?」
首を傾げながら、怪訝そうにディストの表情を覗き込んで窺う。
呻きにも似た声を上げ、シャツの襟を開いて露になった喉元に、深くきつく爪を立てながら、身体の震えを噛み殺しそうとしているようだ。
まだ、月は半分しか満ちていないというのに、堪え性がない。もしかすると、人間の血よりも、吸血鬼の血の方が濃いのだろう。
「ふふ、夫婦が自分たちの子どもに見つからないように、隠れて情を分かち合うかのようですね」
何が可笑しいのか分からないが、ヴァレスの口元から笑みがこぼれた。
「おや、まるで最悪な例えだとでも言いたげなお顔をしていらっしゃいますね。あくまで例え話じゃないですか。ですが、実際は似たようなものでしょう? 夫婦とは、相互協力をし合い、同じ苦楽を共にしていく、いわば、運命共同体とも言える関係なのですから」
その通り、まさに最悪な例えだ。返す言葉もない。
できることならば、この喧しく囀る唇か喉笛を、引き裂くか噛み砕くかしてやりたいくらいだ。
だが、ディストがヴァレスを失えば、自身に望んで血を与えてくれる存在はいなくなる。それにより、自分の目的を果たすことが容易でなくなってしまう。
主の見ていないところで罪のない見知らぬ人間の血を狩ることでしか、自分の中に滾るこの渇望を満たす術がなくなってしまい、また同じ悲劇を繰り返してしまうことになる。
それをセルビアが許すこともないし、そもそも自分が許さない。そして、自分を許せなくなるだろう。
ゆえに、聊か不本意ではあるが、ヴァレスには感謝をしている。
でも、そんなことは、今はどうでもいい。それを伝えるのは、別に今でなくてもいい。いつか、もっと言葉が達者になれば、そのときに伝えればいい。
ただ、今は。
あかい血が、ほしい。
烈火のごとく、紅蓮のごとく熱く滾る、血の管を伝い流れる生命の根源。
そう、それが、ほしくてたまらない。
「どう致しました? そんなに険しい顔をなさって」
ヴァレスの口元が妖しく歪む。
この表情は、現在のディストの状況を間違いなく悟っている。
それなのに、知っていて、あえて尋ねているのだ。
「ふふ、怖い顔をなさいますね。ですが、そんなものに、私が屈すると?」
開け放した窓の傍にいたヴァレスが、俯いて震えるディストの眼前で立ち止まる。
「むしろ、私の内に潜む、よくない感情がそそられてしまいます」
伸ばした両手が、ディストの背中を包み込むように捕らえると、静かに耳元に近づいた。耳朶を暖かな舌が伝い、吸い込まれるように耳の奥へ滑り込むと、聴覚を粘り気のある水音と吐息の音で犯していく。
脳が蝕まれそうなその音に畏怖を感じ、もがく指で彼の身体のどこかを伸びた爪で刺して、こちらへ引き摺って寄せる。爪を立てたそこは、絹の如く真っ白に透き通った、細くてしなやかな首筋だった。
そこに残る小さな鬱血の痕跡と、引っ掻き傷から溢れた鮮血が目に留まると、視界に映る赤い色に、息もできないくらい夢中になってしまう。
一方、柔肌に傷をつけられたヴァレスはというと、ディストが緊張して硬直している隙を見逃さず、全体重をディストに委ねた。
ふっとヴァレスが小さく笑んだ声を聞いた刹那、失いかけた理性が、ディストに警鐘を鳴らしかける。
このままでは重みで椅子ごと落下してしまう、と。
そう思い、どこか掴めるような場所はないかと、無心で手を伸ばしたが、ただ空しく虚空をひらりと舞い、大きな音を立てて床へと崩れ落ちた。
頭を強く打ちつけたのか、鋭い痛みが時折走るが、自分の身体に外傷はないだろう。
ただ、ゆっくりと開いた視界の先で、自分の腹の上に圧し掛かっている男の高圧的な、だがどこか妖艶な瞳が映り、思わず言葉を失ってしまった。否、言葉を失ったというよりかは、上手く腹から声が出なかった、という方が正しいか。
「あなただけが満たされるなんて、そんな驕慢なこと、私は許しませんよ? 私の血でよければ、いくらでもあなたに捧げましょう。ですが、私があなたの欲求を満たすように、あなたも私の欲求を満たしてほしい。ただ、それだけのことです」
ディストの胸の上に頬を当てがって、その上にうつ伏せに寝そべる。言葉の意味を理解できず、ただ呆気に取られている表情が目に付くと、口元を綻ばせながら、肌蹴た首筋へ指先を躍らせる。
擽ったいような、痺れるような、よく分からない不愉快な感覚が煩わしく、できる限りの抵抗はしてみせたものの、一緒に倒れた椅子がわずかに動いただけで、まるで無意味だった。
「あなたは、私がどうなっているのか、本当に分からないのですね……私は、あなたが渇欲を満たす度、あなたにこのように絆されてきたというのに」
指先が伝った首筋に長く伸びた爪が食い込み、チクリと痛んだ。仕置きのつもりなのだろうか。分からない。
「あなたばかりが満足する一方で、私の濡れそぼった身体の渇きが満たされることは、ただの一度もありませんでしたよ。私たちはいわば、運命共同体の夫婦にも等しい関係。そうでしょう?」
先刻までの妖艶な笑みとは、また違った微笑を携えながら、首筋に這わせた指先を、胸へ向かって滑り落としていく。
戦慄や畏怖に似た感情が全身を駆け巡り、先ほどまで確かにあったはずの不安定さが、みるみるうちにそれらに染められていく。ヴァレスに対する嫌悪、拒絶が強いのだ。
どうにかこの状況から脱却する術を模索しているうちに、露骨に嫌な表情を浮かべてしまっていたようで、ヴァレスは小さく嘆息を吐き、すっと胸に添えていた指先を剥がして、ディストの身体から離れた。