「既遂・第２章」
第２章
あの日から二年。王都キリュウの外れにある、小さな森の館に居住している。この館こそがアルヴァージュ家の別荘だ。
例の記憶封印により、セルビアはここが実家だと思い込んでいるようで、ここが実家ではなく別荘だと言っても、あの我侭な性格では聞かないだろうし、そう思わせておくのが好都合だろう。
いつか嘘だとばれてしまう日がくるのだろうかと、ざわめく胸を押し殺し、無表情を演じながら、読んでいた新聞を見つめ、溜め息を吐く。
「吸血鬼の魔術士襲撃も、王都の貴族街だけで四件目か。港の方はもっと多いようだな」
独り言のつもりだったのだが、こちらに背を向けて、熱心にペンを走らせていたヴァレスが、手を休めて振り向く。
「世間的には、春爛漫、花の盛りだというのに物騒ですねぇ。明日からどうなることやら」
ヴァレスは二年経っても何も変わらず、セルビアの担当医であり続けながら、半人半鬼の研究をやめることはなかった。
半人半鬼という種は、とても複雑な構造らしく、自分を偉大な人間であると驕っていた彼でさえ、頭を抱えるほどのものらしい。記憶を消せるような大掛かりな装置を作ることのできる彼ならばと、淡い期待を注いでいたが、それもまた泡沫の夢と化してしまいそうだ。
「そういえば、両親が吸血鬼に殺されたということだけは、ちゃんと記憶されていたようです。あの方の話を聞けば」
椅子の両側の座枠を持ち上げて、こちらの話を聞く体勢に入ろうとしたのを理解すると、小さくなった煙草の火を硝子の灰皿に押し当てて揉み消し、新聞をその辺りに適当に畳んで置いた。
明日は王国が大魔術師の教育を唯一認める、王都の国立魔術学校の入学式。
セルビアは十七歳にして、この国が誇る最難関校の入学試験にトップという優秀成績を修めたし、もちろんのこと、素質検査も難なくパスした。晴れて大魔術学科への入学が正式に認められたのである。
アルヴァージュの惨劇により、血筋は絶えたものだと世間一般では思われていたせいか、検査員の多くがセルビアの持つ強力な魔法力の数値に目を丸くしていたらしい。
後になってそれを知ったディストは、またしても自分の侵した罪の大きさに悲観するばかりになったことは言うまでもないし、今もそのことで少しばかり気を病んでいた。
記憶封印の術式を施されても、記憶の根底に、深く埋め込まれた吸血鬼に対する悲憤慷慨と復讐心が絶えることはなかった件も含め。
「吸血鬼――いえ、あなたに何をされたか覚えていらっしゃらないようなので、“あなたの望んでいた治療”は成功と言えましょう」
「結局、あの暴走は何だったんだ？」
「私がセルビア様に供給していた法術の力を、彼の肉体が拒絶したのですよ。それによって暴走したのです」
「……つまり？」
「彼の身体が、反射的に私の治療を異質、もしくは危険だと察知したのでしょう。それに気づかず、さらに膨大な法力を注ぎ込んだ結果、あの通りです」
「記憶の欠損、か」
「あの惨劇で、精神的な衝撃を受けて記憶をなくされたのだとお考えのようで、あの時、自分が病院に連れて行かされたことにも合点がいった、とのようです」
小さく肩を竦めると、ヴァレスはふっと笑った。
それが、主であるセルビアを嘲笑したのかと思い、少し不愉快な気分になり、その苛立った気持ちを宥めるため、新しく煙草を取り出して火をつけた。灰色の煙と微小の灰が虚空を舞う。
「ああ、失礼。別にセルビア様を悪く言ったわけではありませんよ」
そう言った彼の横顔が、少しだけ翳る。
「ただ、この二年の間で、ゆっくりとながらも、確実に従者の顔になられていくようにも思いまして……ただ、それにより、あなたが私より遠くに行ってしまわれたようで、心なしか寂しく思います」
「それが俺の本来の目的だったんだ。俺はセルビア様に滅されることが罪を購う最良の方法だと思っている。セルビア様が大魔術を行使することで、本当に死ねるがどうか分からないが、死ねなければ、また何か別の方法を考える」
「もしかすると、この数年間で、セルビア様は貴方を必要と感じ始めているかも知れませんよ」
どうだかなと小さく呟いて、ふとこの二年のことを思い返す。
セルビアという主の有能な執事になろうが、セルビアの敵である吸血鬼になろうが、彼の氷のような冷たく凍てついた両の瞳は昔と変わらない。
結局、自分のような凡人には覆せないものなのだと、腰掛けている丸椅子の台座に片足を乗せて膝を抱える。嫌でも自然と悲観的な発想にいたってしまうこの脳は、常に不安を回避、あるいは解決する方法を求めることをやめようとはしない。
「あなたはやればできる人なのに、物事を悲観的に考えてしまいがちなのが、玉に瑕ですね」
「性分だ。放っておいてくれ」
「ふふ、いつも貴方の愚痴を聞く私の身にもなって下さいな……なんて。冗談ですよ。私は貴方の味方ですし、誰よりも貴方を理解したいと思っています」
そう言うと、机の上にある書物をまとめ、本棚に片付ける。その本棚の中には、セルビアの診療簿だけではなく、屍霊魔術に関する文献や、古の時代に実在したと言われる鳥獣についてまとめられた百科辞典、半人半鬼の研究結果が書かれた記録などが粗雑に並べられており、散漫としていた。
少しばかり、その一連の行動を眺めていたが、途中で飽きてしまい、膝小僧に顎を乗せて項垂れながら、自身の手の中でゆっくりと灰に変わっていく煙草を見つめて、脳裏に巡るあらゆる感情に思いを馳せる。
ぼんやりと灰皿の上に落ちる灰を眺めていたが、突然、煙の流れていく方向が変わったことで、部屋の折り戸が開け放されていることに漸く気づいた。
視線を風の吹いている方へ、少し視線を上げると、窓の外には深遠なる漆黒の闇が広がっている。
ディストの頬を撫でて通り過ぎた、煙草の匂いを纏った夜の涼しげな風が淡い光を放つそれを覆い隠していた雲を払う。すると、仄明るい上限の月が姿を見せた。
その途端、先ほどまでの悲観的な考えが消え失せ、どうにも落ち着かない焦燥感が込み上がってくる。
この感覚は、もう何度も経験していた。一度や二度ばかりではない。思わず、またかと、呟いてしまうほどだ。
ディストが今まで“人間”として生きてきた中で、月そのものや、満ち欠けの度合いにより、感情が左右されることなど一度もこんなことはなかった。
だが、今は新月から満月になるにつれての間、特に満月の日に近づけば近づくほど、小さなことに無性に腹が立ったり、小さなことでふと悲しくなったりといった、情緒不安定に陥る。
元々、感情が揺らぎやすく、落差の激しいタイプではあったが、こうまでひどくなかったと思う。
自分でも異常なのではないかと思うようになった切欠を過去を遡って思い返すと、吸血鬼の血が混じり始めた頃からのような気がする。
気になって、ヴァレスに調べてもらったこともあった。
その結果、人間の血に混ざるプロゲステロンのホルモンが、感情や気分に関わる神経伝達物質の量や活性を操作し、影響を及ぼしているのではないかとのことだ。
あの日から二年。王都キリュウの外れにある、小さな森の館に居住している。この館こそがアルヴァージュ家の別荘だ。
例の記憶封印により、セルビアはここが実家だと思い込んでいるようで、ここが実家ではなく別荘だと言っても、あの我侭な性格では聞かないだろうし、そう思わせておくのが好都合だろう。
いつか嘘だとばれてしまう日がくるのだろうかと、ざわめく胸を押し殺し、無表情を演じながら、読んでいた新聞を見つめ、溜め息を吐く。
「吸血鬼の魔術士襲撃も、王都の貴族街だけで四件目か。港の方はもっと多いようだな」
独り言のつもりだったのだが、こちらに背を向けて、熱心にペンを走らせていたヴァレスが、手を休めて振り向く。
「世間的には、春爛漫、花の盛りだというのに物騒ですねぇ。明日からどうなることやら」
ヴァレスは二年経っても何も変わらず、セルビアの担当医であり続けながら、半人半鬼の研究をやめることはなかった。
半人半鬼という種は、とても複雑な構造らしく、自分を偉大な人間であると驕っていた彼でさえ、頭を抱えるほどのものらしい。記憶を消せるような大掛かりな装置を作ることのできる彼ならばと、淡い期待を注いでいたが、それもまた泡沫の夢と化してしまいそうだ。
「そういえば、両親が吸血鬼に殺されたということだけは、ちゃんと記憶されていたようです。あの方の話を聞けば」
椅子の両側の座枠を持ち上げて、こちらの話を聞く体勢に入ろうとしたのを理解すると、小さくなった煙草の火を硝子の灰皿に押し当てて揉み消し、新聞をその辺りに適当に畳んで置いた。
明日は王国が大魔術師の教育を唯一認める、王都の国立魔術学校の入学式。
セルビアは十七歳にして、この国が誇る最難関校の入学試験にトップという優秀成績を修めたし、もちろんのこと、素質検査も難なくパスした。晴れて大魔術学科への入学が正式に認められたのである。
アルヴァージュの惨劇により、血筋は絶えたものだと世間一般では思われていたせいか、検査員の多くがセルビアの持つ強力な魔法力の数値に目を丸くしていたらしい。
後になってそれを知ったディストは、またしても自分の侵した罪の大きさに悲観するばかりになったことは言うまでもないし、今もそのことで少しばかり気を病んでいた。
記憶封印の術式を施されても、記憶の根底に、深く埋め込まれた吸血鬼に対する悲憤慷慨と復讐心が絶えることはなかった件も含め。
「吸血鬼――いえ、あなたに何をされたか覚えていらっしゃらないようなので、“あなたの望んでいた治療”は成功と言えましょう」
「結局、あの暴走は何だったんだ？」
「私がセルビア様に供給していた法術の力を、彼の肉体が拒絶したのですよ。それによって暴走したのです」
「……つまり？」
「彼の身体が、反射的に私の治療を異質、もしくは危険だと察知したのでしょう。それに気づかず、さらに膨大な法力を注ぎ込んだ結果、あの通りです」
「記憶の欠損、か」
「あの惨劇で、精神的な衝撃を受けて記憶をなくされたのだとお考えのようで、あの時、自分が病院に連れて行かされたことにも合点がいった、とのようです」
小さく肩を竦めると、ヴァレスはふっと笑った。
それが、主であるセルビアを嘲笑したのかと思い、少し不愉快な気分になり、その苛立った気持ちを宥めるため、新しく煙草を取り出して火をつけた。灰色の煙と微小の灰が虚空を舞う。
「ああ、失礼。別にセルビア様を悪く言ったわけではありませんよ」
そう言った彼の横顔が、少しだけ翳る。
「ただ、この二年の間で、ゆっくりとながらも、確実に従者の顔になられていくようにも思いまして……ただ、それにより、あなたが私より遠くに行ってしまわれたようで、心なしか寂しく思います」
「それが俺の本来の目的だったんだ。俺はセルビア様に滅されることが罪を購う最良の方法だと思っている。セルビア様が大魔術を行使することで、本当に死ねるがどうか分からないが、死ねなければ、また何か別の方法を考える」
「もしかすると、この数年間で、セルビア様は貴方を必要と感じ始めているかも知れませんよ」
どうだかなと小さく呟いて、ふとこの二年のことを思い返す。
セルビアという主の有能な執事になろうが、セルビアの敵である吸血鬼になろうが、彼の氷のような冷たく凍てついた両の瞳は昔と変わらない。
結局、自分のような凡人には覆せないものなのだと、腰掛けている丸椅子の台座に片足を乗せて膝を抱える。嫌でも自然と悲観的な発想にいたってしまうこの脳は、常に不安を回避、あるいは解決する方法を求めることをやめようとはしない。
「あなたはやればできる人なのに、物事を悲観的に考えてしまいがちなのが、玉に瑕ですね」
「性分だ。放っておいてくれ」
「ふふ、いつも貴方の愚痴を聞く私の身にもなって下さいな……なんて。冗談ですよ。私は貴方の味方ですし、誰よりも貴方を理解したいと思っています」
そう言うと、机の上にある書物をまとめ、本棚に片付ける。その本棚の中には、セルビアの診療簿だけではなく、屍霊魔術に関する文献や、古の時代に実在したと言われる鳥獣についてまとめられた百科辞典、半人半鬼の研究結果が書かれた記録などが粗雑に並べられており、散漫としていた。
少しばかり、その一連の行動を眺めていたが、途中で飽きてしまい、膝小僧に顎を乗せて項垂れながら、自身の手の中でゆっくりと灰に変わっていく煙草を見つめて、脳裏に巡るあらゆる感情に思いを馳せる。
ぼんやりと灰皿の上に落ちる灰を眺めていたが、突然、煙の流れていく方向が変わったことで、部屋の折り戸が開け放されていることに漸く気づいた。
視線を風の吹いている方へ、少し視線を上げると、窓の外には深遠なる漆黒の闇が広がっている。
ディストの頬を撫でて通り過ぎた、煙草の匂いを纏った夜の涼しげな風が淡い光を放つそれを覆い隠していた雲を払う。すると、仄明るい上限の月が姿を見せた。
その途端、先ほどまでの悲観的な考えが消え失せ、どうにも落ち着かない焦燥感が込み上がってくる。
この感覚は、もう何度も経験していた。一度や二度ばかりではない。思わず、またかと、呟いてしまうほどだ。
ディストが今まで“人間”として生きてきた中で、月そのものや、満ち欠けの度合いにより、感情が左右されることなど一度もこんなことはなかった。
だが、今は新月から満月になるにつれての間、特に満月の日に近づけば近づくほど、小さなことに無性に腹が立ったり、小さなことでふと悲しくなったりといった、情緒不安定に陥る。
元々、感情が揺らぎやすく、落差の激しいタイプではあったが、こうまでひどくなかったと思う。
自分でも異常なのではないかと思うようになった切欠を過去を遡って思い返すと、吸血鬼の血が混じり始めた頃からのような気がする。
気になって、ヴァレスに調べてもらったこともあった。
その結果、人間の血に混ざるプロゲステロンのホルモンが、感情や気分に関わる神経伝達物質の量や活性を操作し、影響を及ぼしているのではないかとのことだ。