おぼろげに輝く
13
「曽根山こうの身内です」
搬送口とは反対側から声がして、俺は立ち上がった。お母さんと思われるその女性は、看護師が呼んできた先ほどの医者と共に、仕切りの部屋に入って行った。しばらくすると、二人は出てきて、医者は俺の方を手で指した。女性がこちらに歩いてくるので、俺は会釈をした。
「こうを見つけてくださったってお聞きしました」
何となく曽根ちゃんの面影があるその女性を見て、不覚にもまた涙腺が緩む。一度咳払いをして気を落ち着かせて口を開く。
「はい。曽根山さんとお付き合いをさせていただいてます、太田塁と申します」
女性は深々と頭を下げ「この度はありがとうございました。こうの母です」と言う。
「容体はどうですか? 僕、昼前に聞いたきりなので」
「えぇ、命に別状はないけれど、意識がまだない状態で。これから別の部屋にうつるらしいので、一度会ってやってください」
はい、と返事をし、処置室に目をやると、水色のカーテンの間から、ベッドに横たわる曽根ちゃんが出てきた。身体からいくつかの管が出ている。それらの終点にある器械を看護師が引きずりながら、進んで行く。俺とお母さんはその後をついて行った。
ただ眠っているだけの曽根ちゃんの身体から、沢山の管が出ていて、それを監視する機械がついている。それをただただ呆然と見つめる俺の前で、お母さんは曽根ちゃんの手を握って泣いた。
「無事で良かった」と。
そう、無事だったのだ。心臓は動いていて、脳だって機能している。息をしている。機械に生かされている訳ではない。ただそこで眠っていて、少し長過ぎる眠りに入っているだけで、そのうち怠そうに目をぱちくりしながら「おはよ」と言うに違いないのだ。
間違いないのだ。
だから早く、その瞳を、見せて欲しい。笑顔なんて望まない。いつもの、何も写らないような、温度の低い瞳でいいんだ。それをお母さんに、俺に、医者に、見せてくれ。
祈るような気持ちで、俺はポケットに入れた鍵をぎゅっと握っていた。
お母さんから椅子を勧められ、俺は腰掛けた。
実家とはそれほど密に連絡を取り合っていなかったらしく、今の仕事の状況などを全く知らないと言うので、俺は分かる範囲で説明した。吉祥寺の工房にも連絡を入れないといけない、とその時気付く。
「連絡がないって事は元気にやってるんだろうと思ってたんだけど、こんなに素敵な彼もいて、仕事もきちんとしてたんだね。頑張ってたんだね。ほんっとに助かって良かった」
お母さんはまた涙ぐんだ。何度涙を流しても気が済まないのだろう。何を話しても涙ぐむ。
「お父さんはお仕事ですか」
「うん、もうそろそろこっちに着くと思うんだけど」
それから、涙のピークが過ぎたお母さんと、曽根ちゃんの最近の様子について話をした。十分と経たずに、スーツを着たお父さんが現れた。お母さんに向けて乱暴に鞄を放ると即、曽根ちゃんの枕元に行き「こう、こう」と呼びかけた。お母さんは困ったように眉根を寄せて俺に笑いかけるので、俺も歪な笑顔で返す。
お母さんは俺の事をかいつまんでお父さんに説明してくれたので、俺は無駄に緊張せずに済んだ。
「発見が遅れてたら危なかったって先生が言ってたの」
「じゃぁ太田君が命の恩人か」
俺は笑う事もできず、泣く事もできず、ただただ「はぁ」と息を吐くような返事をする。
曽根ちゃんは大丈夫だ。寝ているだけなのだ。
俺の父ちゃんと母ちゃんは、寝ている顔の上に、白い布を被せられていた事を思い出す。自動車事故だったから、顔は縫合痕だらけで、それでも二人の顔が見たくて、俺はその布をとり、顔の形を覚えるように、冷たくなった頬や鼻や顎に触れた事を、瞬時に思い出し、動揺する。
違うんだ。曽根ちゃんは眠っているだけ。白い布も掛けられていないし、顔には傷一つない。何より体温があるのだ。彼女は体温を持っている。違うのだ。
「また明日来ます。これ、曽根山さんの家の鍵です」
俺はお母さんに、曽根ちゃんの家の鍵を渡した。警察が出入りしたりするだろうから、曽根ちゃんの部屋にお母さん達が入る事ができるのかどうかは知らないが、俺が持っているのも何だかおかしい気がしたのだ。俺は所詮、他人だ。
「あと、曽根山さんの仕事場の工房には僕が連絡しておきますので」
そう言うと二人揃って「ありがとう」と礼を言った。
それから曽根ちゃんが働く工房の主で、フランスの師匠の友人でもある園山さんに連絡をいれた。入院している病院名も告げた。俺と曽根ちゃんが付き合っている事は知らなかったらしく、えらく驚いていた。ピアノを教えている子は工房の美術教室に通っている子達らしく、そちらにも連絡をしてくれると言う。
こういう場合、何日ぐらいで意識を取り戻す物なのだろうか。俺には全く知識がなかった。とにかく明日も病院に行こう。幸い、急ぎの仕事はないし、抱えている仕事は夜にこなせばいい。病院の面会時間をインターネットで調べ、メモする。いつでも会える、そう思っていたのに、明日からは限られた時間にしか会えないのだと、そのメモに溜め息を落とす。
もう夕飯時をとっくに過ぎていて、空かない腹を抱えたままコンビニに足を運んだ。だがやはり、食欲は全くと言っていい程わかなくて、結局コーラを一本買った。フタを開け閉めして炭酸を抜きながら、家に戻った。
翌日、午後の面会時間に合わせて病室に行くと、ベッドサイドには誰もいなかった。俺は昨日と何ら状態の変わらない眠り姫の横に椅子を置くと、座って、その顔をじっと見つめた。
上下が合わさるまつげが、意外と長い事に気付く。それはカールする事なく、真っすぐに伸びている。だからこそ、目の辺りに影を作り、物憂げな表情に映るのだと納得する。鼻はそんなに高くなく、その下に、最大でどれぐらいまで開いた事があるのか分からない、桜色の唇がある。彼女が声を張り上げるところを見た事がない。口なんて六割ぐらいしか開いてないんじゃないか。
そんな風に観察していると、お母さんがやってきた。
「お邪魔してます」
そう言って頭を下げると「ありがとう」と礼を言われる。今日必ず目を醒すと分かっているのなら俺は、二十四時間臨戦態勢で待機するのだが、醒す確約もないし、病院側から帰れと言われるだろう。結局この日、俺が病院にいる間、彼女は眠りの森から帰って来なかった。途中、園山さんが見舞いに来たが、俺と二言三言言葉を交わし、ご両親に挨拶をすると、すぐに帰って行った。そりゃそうだ、彼女は眠ったまま、話もできなきゃ返事もできないのだから。
連絡がこなければ俺からしないつもりだった。だけどそう思う時に限って、携帯は鳴るのだ。
病院の中では携帯電話の電源を切るようにとあちこちに看板が出ているけれど、入院患者ですら携帯を鳴らしている昨今、この規定を守っている人間がどれ程いよう。俺はマナーモードにしてある携帯をちらりと見て、智樹からの着信である事を確認した。
「今日は帰ります。また明日来ます」
昨日と同じことを言っていると思いつつ、お母さんに頭を下げ、病院から出た。この時間に智樹から連絡が来るという事は、今日は土曜か日曜か。そう思って腕時計に目をやると、土曜日だった。