八方美人のすすめ 4月 2日 お遍路 追加
遍路道ならこれでもいいが、人生で困った時に道を聞くとこれが往々にして始末が悪い。正しい道案内をしてくれる保障もなく、そんな時、人を狙って人の弱みに付け入る輩がいるので危険なのである。
「溺れる者は藁をも掴む」 けど藁では溺れるのだ。
さも自分を助けてくれるような話を持ち込みもっと深み、迷い道に連れ込むのが多いからこんな世の中になる。困ると誰でも自分を助けてくれると勝手に思い込むがそう善人ばかり世の中に居る筈はない。
確かに迷う時も有るだろうし道を聞くのも結構だがそんな時にはまず立ち止まり考える
、悩まずに考えることが肝心。遍路道は以前と違い昔何度も通った人が自ら道標もたて、シールもはって後の人が迷わないように道案内を立てその数は随分多くなった。少し目を配るとそれは必ずそこここにある。知っているか知らないか分からない人に道を聞くよりいくら確かなものか分からない、なぜならその遍路道の道標を立てた人は自分が迷い、苦労しその苦労を他にさせまいと自ら立てたからなのだ。分からなくなったら聞くのも宜しい、しかし確かなのは先人が残してくれた物言わずただ黙って立っている道しるべをもう一度探すことだと、遍路に道を聞かれる度に私は感じる。そしてそれを信じて進むことが決願への道筋だと思う。
遍路の決願は八十八カ所を回り高野山へお参りすればそこが一応終着点だが、人生の決願は果たしてなんなのだろう。それさえも分からず遍路という人生を送ったところで決願はなく、何度も巡礼を繰り返し果ては疲れ果て、無縁仏になるのではないだろうかとさえ考えてしまう。
歩き遍路にも色々な人が居り行商人ほどの多くの荷物を車に積んで押して行く人やリュック一つの人、托鉢をしながら回る人と様々。歩き遍路も回りだした時はあれもこれもと荷物を持つそうだが当然そうなると身体に負担がかかるので回るうちに一つ、また一つと荷物を減らしていくそうである。それまでは気がつかず自分を守るため、心地よく巡礼するためと思っていたものが自分の足で回ると楽などころかそれ自体が自分の負担になることを身をもって分からせるということである。
快く生きるということはそういうことで、多くを背負うから疲れるのであって、それなら始めから持つ必要がないのである。欲しいと思う欲が自分自身を縛り身動き取れなくしていっているのではないだろうか?私達は常日頃から誰かにもっと持ちなさい、もっと豊かになれば幸せになると思い込まされているのではないと考えられて仕方が無い。
物を持つのではなく欲を少なくすること、それが楽になる秘訣ではないだろうか。体一つの楽さかなとでもいうのだろうか。
今日もすれ違った若い男性のお遍路さんは果たして何か得るものがあるだろうか。
決願の時には軽い身一つになっているだろうか?
今日も多くのお遍路が様々な思いをもって春雨の中ただ黙って歩いていく。
遍路には順路があるので次が分かるが人生の遍路には順路は無い。誰かに聞いてもその道が遍路道で次の札所へ導く保証などどこにも無いのである。
あなたも一度歩き遍路を体験するとよくわかる。
作品名:八方美人のすすめ 4月 2日 お遍路 追加 作家名:のすひろ