八方美人のすすめ 4月 2日 お遍路 追加
お遍路
季節が良くなってくるとここ四国路には背中に南無大師遍照金剛と書かれた白衣を着た四国八十八ヵ所参りのお遍路がよく見られるようになる。はらはらと桜の花びらが舞う参道を金剛杖の鈴を鳴らしながら菅笠を被ったお遍路さんが歩く姿はなかなか趣があるもので四国の春の訪れを感じさす。
この八十八ヵ所巡礼は弘法大師、空海縁の寺を回っていくもので一般的に回りだしたのは江戸時代とかいわれ徳島の一番霊山寺を皮切りに時計周りに徳島、高知、愛媛、香川と回り最後は八十八番大窪寺へ行き、その後高野山へ参り決願となるそうだ。一番から順に回るのを順打ち、反対から回るのを逆打ちともいうが別段順番どおり回る必要もなく好きなところからはじめ好きなところで終わっても構わない。近頃は交通網特に道路が整備されたおかげもあり車で回るお遍路さんが多く、なかでも団体観光バスの巡礼ツアーで来る熟年、壮年のお遍路さんをよく見かけるが、以前より歩き遍路の数も増えたように感じるのは団塊の世代がリタイアした影響だろうか?また海外からの巡礼者というのもさほど珍しくなくなったのは時代というべきだろうか。
少し変わっているなと感じたのは浄土宗の坊さんも中には巡礼しているそうで、こちらは巡礼といってもどんなものかなと回っているのだろうか?そもそも南無阿弥陀仏と唱えさえすれば極楽浄土できるという便利で楽な教えなので浄土宗に巡礼など必要なく、勿論参ってもお経を上げることも無いと書いている人もいるくらいである。
イスラム教の熱心な信者がスペインのキリスト教巡礼の道を歩いて十字を切るなんて事はないだろうからそれはもっともな話ではある。
我が家はこの遍路道から少し外れているが、外で用事をしているとよく歩き遍路に道を聞かれる。あまり聞かれるので地図を用意しようかと考えるほどだが、これも四国特有のお接待の心で丁寧に教えてあげるようにしている。よく企業の接待といわれるがここ四国でお接待というのは巡礼者にお茶やお菓子、果物などを施し休憩させてあげたり時には車で途中送ったり一夜の宿を貸したりと温かくもてなすことをいう。それは巡礼者のためだけではなく、巡礼者と一緒に回っている弘法大師のためと巡礼者とともに自分も回れるということを含めて行うもので、その為にわざわざ休憩所を立てるところもあり、それを休憩所または接待所と呼ぶ。
近頃は便利な世の中で、スマートフォンのナビ機能を使うと車だろうが歩きだろうが次の札所まで連れて行ってくれるようになった。遍路道には専用の道しるべもあるし、道路標識のポールなどには矢印のステッカーが張られていて以前より道が分かりやすくなっていてもなお巡礼にナビを使うというものも可笑しな物で、あくまで巡礼という名の観光なのが直ぐに分かるが、遍路に道を聞かれるたびに感じることがある。
遍路でなくとも人は道に迷う。ただ道に迷うだけではなく人生という道にも迷うことがある。そうするとナビ宜しく誰かに道を教えてもらうわけだ。
「あの次の札所はここからいけますか?」と聞かれるので
「ええここを行ってあれこれ云々」と教えてあげる。聞く側は面白いもので「ありがとうございます」と礼をいうと歩き出すが、それは本当だろうかと疑う人間はまずいない。当然私は次の札所までの道を知っていて、自分に教えてくれていると思い込む。時にはお遍路と話し込み冗談で「この道でも大丈夫ですよ」と一通り教えた後
「どっちみち四国から出ることはないから、歩いていればどこかに行き当たります。そこでまた聞けばいいです」というとその遍路は「確かにそうですね」と笑うと菅笠に手をやると軽く会釈をして歩き出したこともある。
季節が良くなってくるとここ四国路には背中に南無大師遍照金剛と書かれた白衣を着た四国八十八ヵ所参りのお遍路がよく見られるようになる。はらはらと桜の花びらが舞う参道を金剛杖の鈴を鳴らしながら菅笠を被ったお遍路さんが歩く姿はなかなか趣があるもので四国の春の訪れを感じさす。
この八十八ヵ所巡礼は弘法大師、空海縁の寺を回っていくもので一般的に回りだしたのは江戸時代とかいわれ徳島の一番霊山寺を皮切りに時計周りに徳島、高知、愛媛、香川と回り最後は八十八番大窪寺へ行き、その後高野山へ参り決願となるそうだ。一番から順に回るのを順打ち、反対から回るのを逆打ちともいうが別段順番どおり回る必要もなく好きなところからはじめ好きなところで終わっても構わない。近頃は交通網特に道路が整備されたおかげもあり車で回るお遍路さんが多く、なかでも団体観光バスの巡礼ツアーで来る熟年、壮年のお遍路さんをよく見かけるが、以前より歩き遍路の数も増えたように感じるのは団塊の世代がリタイアした影響だろうか?また海外からの巡礼者というのもさほど珍しくなくなったのは時代というべきだろうか。
少し変わっているなと感じたのは浄土宗の坊さんも中には巡礼しているそうで、こちらは巡礼といってもどんなものかなと回っているのだろうか?そもそも南無阿弥陀仏と唱えさえすれば極楽浄土できるという便利で楽な教えなので浄土宗に巡礼など必要なく、勿論参ってもお経を上げることも無いと書いている人もいるくらいである。
イスラム教の熱心な信者がスペインのキリスト教巡礼の道を歩いて十字を切るなんて事はないだろうからそれはもっともな話ではある。
我が家はこの遍路道から少し外れているが、外で用事をしているとよく歩き遍路に道を聞かれる。あまり聞かれるので地図を用意しようかと考えるほどだが、これも四国特有のお接待の心で丁寧に教えてあげるようにしている。よく企業の接待といわれるがここ四国でお接待というのは巡礼者にお茶やお菓子、果物などを施し休憩させてあげたり時には車で途中送ったり一夜の宿を貸したりと温かくもてなすことをいう。それは巡礼者のためだけではなく、巡礼者と一緒に回っている弘法大師のためと巡礼者とともに自分も回れるということを含めて行うもので、その為にわざわざ休憩所を立てるところもあり、それを休憩所または接待所と呼ぶ。
近頃は便利な世の中で、スマートフォンのナビ機能を使うと車だろうが歩きだろうが次の札所まで連れて行ってくれるようになった。遍路道には専用の道しるべもあるし、道路標識のポールなどには矢印のステッカーが張られていて以前より道が分かりやすくなっていてもなお巡礼にナビを使うというものも可笑しな物で、あくまで巡礼という名の観光なのが直ぐに分かるが、遍路に道を聞かれるたびに感じることがある。
遍路でなくとも人は道に迷う。ただ道に迷うだけではなく人生という道にも迷うことがある。そうするとナビ宜しく誰かに道を教えてもらうわけだ。
「あの次の札所はここからいけますか?」と聞かれるので
「ええここを行ってあれこれ云々」と教えてあげる。聞く側は面白いもので「ありがとうございます」と礼をいうと歩き出すが、それは本当だろうかと疑う人間はまずいない。当然私は次の札所までの道を知っていて、自分に教えてくれていると思い込む。時にはお遍路と話し込み冗談で「この道でも大丈夫ですよ」と一通り教えた後
「どっちみち四国から出ることはないから、歩いていればどこかに行き当たります。そこでまた聞けばいいです」というとその遍路は「確かにそうですね」と笑うと菅笠に手をやると軽く会釈をして歩き出したこともある。
作品名:八方美人のすすめ 4月 2日 お遍路 追加 作家名:のすひろ