Savior 第一部 救世主と魔女Ⅰ
外へ出ると、日頃教会に満ちている重々しい静寂は、魔女の逃亡によってすっかり破られていた。捕縛に向かう騎士と避難する司祭達が廊下のあちこちでぶつかり、ちょっとした騒動になっている。教会は長い平和に慣れきっていて、この緊急事態に対応しきれないのだ。
多発するちょっとした騒動の間をすり抜けながら、魔女が逃げているという六階を目指す。程なくして、アルベルトはその場所に辿り着いた。
あちこち傷が行きひび割れた廊下は死屍累々たる有様だった。正確にいうと積み上がっているのは負傷した騎士達で、完全に戦意喪失し逃げようとしている者がほとんどだ。その中心で、彼女は剣を手に涼しい顔をして立っていた。
「悪魔祓い師というのは暇なのね。私を追いかけるよりよほど重要なことがある気がするけど」
そう言って、彼女は剣を構える。護身用なのかそれなりに使えるようだ。仕方なくアルベルトも剣を抜き、討ちかかってきた彼女の一撃を防いだ。
「さっきは私を庇ったけど、今度は捕まえに来たというわけね。敵なのか味方なのかはっきりしてくれると戦いやすくていいのだけど」
「君も少しは大人しくしてくれないか。逃げたりしたら庇うのが難しくなる」
「あんな居心地の悪い場所で大人しくなんてしてられないわ。頭の悪い牢番の相手もね」
新手の騎士達が廊下の向こうからやってくる。その様子を見ると、彼女はアルベルトから離れた。
「それに私はあなたたちほど暇じゃない」
窓ガラスが吹っ飛んだ。ステンドグラスが散乱し、乱反射した光が目を焼く。極彩色の光を浴びながら、彼女は窓の外に飛び出した。風雨にさらされくすんだ色となった屋根の上を走っていく。その後を追って、アルベルトも外に出た。
屋根の縁ぎりぎりのところに彼女は立っていた。ラオディキアの教会はこの都市で一番高い建物だ。屋根の上ともなれば、高所恐怖症でなくとも足がすくみ、言うまでもなく落ちれば命はない。
「行き止まりだ。もう逃げ道はない。大人しく捕まってくれ。抵抗するなら君の身の安全は保障できなくなる」
「抵抗しないなら身の安全は保障するとでも? 過去魔女狩りに合った人間がどんな目にあっているか、私が知らないとでも思っているの?」
「俺が証言する。ちゃんと調べて、君の力が悪魔のものでないと証明すれば…」
しかしそれは本当に可能なのだろうか。悪魔ではないと証明してなんになる? 神に由来しない力は全て異教のもの。教会は異教を認めない。結局魔女として処刑されるだけだ。
一度魔女と疑われたら、その判定が覆ることはない。
「証明したところできっと教会は認めない。慈悲だの愛だの言っていても、教会は意に沿わぬものを切り捨て、消そうとする。貧民街の人達を見捨てたように。教会の善人気取りに付き合うのはごめんだわ」
強い風が屋根の上を駆けていく。踵を返し、彼女は空中へと足を踏み出した。風を呼び、空を切って、落ちていく。
数瞬前まで彼女が立っていた場所に立ち、その姿を追う頃には、彼女は遥か遠くの地上に降り立ち、あっという間に町の中へ消えていった。
「魔術か。なんて無茶な」
大胆で危険すぎる逃走劇。全く以って彼女には驚かされる。あっさり逃げられてしまったのに、悔しいというよりも清々しい思いだった。
夕闇が辺りを支配する頃、アルベルトは一人貧民街へと向かっていた。
あの後、大勢の市民と数人の騎士によれば、魔女は街の南門前に現れたかと思うと、門衛を全て倒して堂々と外へ出て行ったとのことだった。教会は魔女を野放しにするつもりはない。すぐに追跡部隊が編成され、アルベルトも悪魔祓い師として魔女を追うことが決まった。準備ができ次第魔女の後を追うこととなるだろう。しかし、彼にはその前に行きたい場所があった。
闇の中をアルベルトは歩く。昔から夜目が利くので、この程度なら明かりは必要ない。そしてある一軒家にたどり着くと、辺りの様子を伺ってから、傾いだ扉を叩いた。
顔を出したのはショーンだった。
「アル兄…」
「こんばんは。中に入れてくれないか」
「え、えーとそれは…」
うろたえるショーンを押しのけ、アルベルトは中に入った。
そこには貧民街の人々が十数人集まっていた。皆、アルベルトの登場に戸惑い、あからさまに敵意を向ける者もいる。そして、相変わらず人々の真ん中に救世主は立っていた。
「しつこいな。悪魔祓い師は」
そう言って、彼女は冷ややかな目を向ける。アルベルトは首を振った。
「俺は君を捕らえに来たんじゃない」
疑いの眼差しがアルベルトに注がれる。結局のところ、住人達にとってアルベルトは教会の人間でしかない。教会が信用できないものであるならば、アルベルトもまた、信用できない人物なのだ。
当然だ、と思う。
「私を捕まえに来たのではないのなら、あなたは一体なにをしに来たの?」
彼女はあの射抜くような目でアルベルトを見る。嘘をついても見透かされそうだ。つくつもりはないのだが。
「一つは予想が外れていないか確かめるためだ。君が捕らえられたとき、まだここには悪魔憑きが残されていた。君はここの人たちを見捨てるつもりなんてなかった。ラオディキアを出たように見せかけただけで、すぐにここへ向かったんじゃないか、と思ったんだよ」
そしてその通りだった。その事実に少し安堵していた。
「二つ目は君に知らせたいことがあったからだ。教会は本気で君を追うつもりでいる。アルヴィア中に魔女が現れたことを知らしめるだろう。そうなる前にこの国を出たほうがいい」
意外なことだったのか、彼女は少し驚いたようだった。
「今朝といい今といい、あなたは何故私を助けようとするの?」
「俺には君を火刑にする理由がないからだ」
「悪魔祓い師なのに?」
そんなことは関係ない。魔女を殺したくて悪魔祓い師になったわけではないのだから。
「俺は地方の貧しい農村で育った。毎日毎日、日の出から日没まで働いてなんとか食っていける。そんな村だった。
息子の俺が言うのもなんだけど、両親は優しくて真面目で働き者だった。でも、二人とも悪魔に取り憑かれ、悪魔祓いの儀式を受けられず死んだ。両親は…祈りの日に労働をやめない罪人だったからだ」
月に一度、一切の労働をやめ、神の栄光に思いをはせる祈りの日。これを守らぬものは罪人と呼ばれ、蔑まれる。たとえそれが、守らないのではなく守れないからであっても。生きるのに精一杯で祈る間もなく、貧困の果てに悪魔に取り憑かれて死んでいく。それが正しいと言うのなら、祈りの日は一体誰のためにあるのだろう。
「悪魔祓い師になれば、両親のような貧しい人を救えると思った。何としてでも罪人の定義を、教会を変えたかった」
けれど、悪魔祓い師になっても一人では悪魔一匹祓うこともできず、どんなに訴えかけても教会は聞く耳を持たない。結局無力なまま、貧民街の人達が苦しんでいるのを見ているしかなかった。
そんな矢先、彼女は現れた。
「君は俺が望み、けれど出来なかったことをしている。君を捕らえて火刑台に送ったら、俺は俺の望みを否定することになる」
信じてくれるかはわからない。けどこれが、アルベルトの偽りない本心だった。
作品名:Savior 第一部 救世主と魔女Ⅰ 作家名:紫苑