Savior 第一部 救世主と魔女Ⅰ
自由を取り戻したリゼに、今度はリリーナが飛び掛った。その口には鋭い歯が並び、瞳は血の色に輝いている。しかし、その動きは速いものではなく、避けるのは容易だった。
間違いない。リリーナは悪魔憑きだ。微かだが悪魔の気配もする。昼間会った時には全く気付かなかったから、おそらく気配を隠すことの出来る悪魔なのだろう。あるいは気配を感じにくいほど弱い悪魔なのかもしれない。だが、この違和感は一体なんなのだろう。
そうこうしているうちにまた地面から手が生えてきた。リゼを捕らえようとあちらこちらから伸びてくる魔手をとにかく斬り払い、蠢く悪魔達を浄化する。
消えていく悪魔達の向こうで、リリーナはじっとこちらを見つめている。まるで獲物を捕らえるタイミングを計っているかのようだった。あるいは疲れ、弱るのを待っているような。
悪魔の数はまだまだ多い。揺れる手を薙ぎ払い、次の悪魔を倒そうとした時、アルベルトの声が墓場中に響き渡った。
「神よ、我に祝福を。汝は我が盾、我が剣なり。その栄光は世々に限りなく、あまねく地を照らす。至尊なる神よ。その御手もて悪しきものに断罪を!」
光が奔り、それを浴びた無数の手が土塊(つちくれ)となって崩れていく。悪魔の群体の中心を正確に捉えたアルベルトの一撃によって、悪魔はバラバラに散っていった。
「リゼ、無事か?」
「当たり前よ。それよりあの人、悪魔憑きなのは間違いないけど何かおかしくて」
「リリーナさんの死体に悪魔が取り憑いているんだ」
アルベルトは事の次第を簡潔に説明した。どうやら正体不明の違和感はリリーナが死人だったためらしい。
「死体に憑く悪魔・・・魔物と同じか」
それなら気兼ねする必要はない。リリーナには申し訳ないが、彼女は既に死者。他の生者に害が及ぶ前に悪魔を倒さなくてはならない。
しかし剣を構える二人の前にヨハンが立ち塞がった。
「待ってくれ! リリーナを傷つけないでくれ!」
「そんなこと言っている場合じゃないでしょう。あの人はもう死んでるのよ」
「これ以上悪魔を放って置くわけにはいかないのは分かっている。リリーナが死んだことを認めなければならないことも。だが、あの悪魔を彼女ごと滅ぼすことだけは・・・」
気持ちは分かるけど、と渋るリゼに対し、アルベルトはあっさり了承した。
「リリーナさんを傷つけなければいいんですね」
「アルベルト、あなたね」
全く人がいいにも程がある。気配を絶つことの出来る悪魔を入れ物から出したら、面倒なことになるのは目に見えているのに。
「大体どうやって悪魔を追い出すつもりなの?」
「これを使う」
アルベルトが取り出したのは水筒だった。意外な物の登場に驚いていると、彼は水筒の中身をふらふらと歩いてきたリリーナ目掛けてぶちまけた。
「神よ。祝福を、赦しを、安らぎを。この水を聖なるものとし、浄化の力を与え給え」
水を浴びたリリーナが苦悶の声をあげる。彼女はしばらくもがいた後、糸が切れた人形のように倒れ伏した。
薄い靄のようなものが空中に現れた。棲み家を追われた悪魔はふらふらと揺らめくと、突如弾丸のように飛び出した。
真っ直ぐこちらに向かってくるそれを不可視の壁で弾き返す。しかし、弱った悪魔を捕らえようとしたとき、すっとその気配が消えた。
「どこ!?」
「リゼ、左だ!」
しかし悪魔はどこにもいない。
一体どこにいるというのだ。
生温かい風が吹き抜ける。一度は消え去った悪魔達が少しずつ集まり始めていた。このままではまた魔物がやってきてしまう。その前にあの悪魔を倒さなければならないが、どこにいるのかも分からないのでは・・・
その時、真後ろに嫌な気配が出現した。悪魔だ。しかしリゼが動く前に、アルベルトの剣が背後の空間を貫いていた。何もなかったはずの場所に黒い靄が現れ、苦しそうに蠢く。続いて唱えられた祈りの言葉が靄を切り裂き、悪魔はあっけなく消滅した。
「何をしたの?」
「ああ、水を聖水に変えたんだよ。魔物は聖水に弱いから、悪魔はあの身体を離れると思ってね」
「それじゃない。どうして悪魔の位置が分かったの?」
「生まれつき目が良いんだよ。おかげで他の人には視えないものが視えるんだ」
「目が良いって・・・まあいいわ」
あまり説明になっていなかったが何となく分かった。詳しいことは後で聞くことにして、二人は地面に横たわるリリーナと、その傍らに膝を付くヨハンに近寄った。
「・・・リリーナは死んだのだな」
その言葉はまるで自分に言い聞かせているようだった。そうしなければ、またしても死者の復活を望んでしまうと思ったのかもしれない。
「これは神が私に与えた罰なのだろうな。私がリリーナを諦めていれば、悪魔祓い師の資格を捨てなければ、彼女を救うことが出来たかもしれないのに」
後悔と責任感が二重になってヨハンを苦しめている。その気持ちは理解出来た。リゼもまた、同じ思いに囚われ続けているからだ。あの日以来――
「ヨハン神父、あなたは確かに誓願を破り、悪魔の存在に目を瞑ってきました。しかし、あなたのその行動はリリーナさんを想うが故のことだったのでしょう? 例えどんな罪を犯しても、心から祈り悔い改めるものを神は赦してくださいます」
静かにアルベルトはそう言った。しかしヨハンは虚ろな笑みを浮かべただけだった。
「いいや、神は私を赦しはしないだろう。悪魔堕ちした悪魔祓い師に待っているのは罰と後悔だけなのだよ。アルベルト君」
それから彼は何も言わなかった。アルベルトもそれ以上掛ける言葉が見つからないようだった。
(悔い改めれば赦してくれる―――)
リゼは心の中でアルベルトの言葉を反芻した。それは聖職者としてお決まりの文句なのだろう。彼らのように神を信じる者にとって、神の赦しは重要なことなのだ。
だが、一体何を赦すのだ? 悪魔を放置してきたことは罪だと言えるだろうが、この場合、赦しを与える立場にあるのは被害を受けた村人達だ。なら誓願を破ったことか。
「罰、ね。馬鹿馬鹿しい。誰かを愛することが罪だとでも? それが死に値する罪だというなら、神は一体何様のつもりなのかしらね」
「リゼ!」
「何か間違ってるかしら。ラオディキアで教会がしたこと、忘れた訳じゃないでしょう」
アルベルトはゆっくり首を横に振った。
「神がどんなに偉大な教えを示そうと、実践するのは我々人間だ。そして人間である以上、間違えることだってある」
「悪いのは教会(人間)だけだって言いたいの?」
「そうだ」
ご立派な信仰心だ。そう思ったが口には出さなかった。アルベルトと論争するのは面倒だったし、すれば神学の授業を受ける破目になるだろうと思ったからだ。
神が何を教えているかなどに興味はない。信じたければ信じればいいのだ。ただそれを他者に強制し、守らぬ者を見下すことで己がまるで優れた人物であるかのように振舞う教会のやり口は気に食わないし、あんなものを許容するマラーク教の神が素晴らしいとは思わない。神の言うことは全て正しいなど、どうして言えるのだろう。
そして、こういう時、思うのだ。
魔女と悪魔祓い師は全く以って違うのだと。
作品名:Savior 第一部 救世主と魔女Ⅰ 作家名:紫苑