短編集 1
そんな会話を耳にして、真っ先に気になったのが、妹の繭花だった。この場所にはいない。いつも一緒にいた彼女が、部屋が別になって、ひどく長い間喋っていないような気がした。頭を過ぎった不安感と、違和感。そして恐怖感。
「…まゆ…かは」
息だけを吐いたようなか細い声で、そう訊いた。
「まゆか……どこ…」
たった少し言葉を発するだけなのに、どうしてこんなにも疲れるのだろう。呼吸をすることや瞬きをすることすら気怠く感じてしまう。そんな状態で首を少しだけずらして、家族や医者がいる方へと視線を向けた。揃いも揃って、複雑そうな顔をした。
なんとなく、そんな予感はしていたんだ。でも、していただけで、確証もないしそうでなければいいと思っていた。
繭花の身に、何かが起きた。
「…繭花は…正哉とは違う病室で寝てるの…正哉は、ほら、早く治して、早く繭花に会ってあげて…」
母さんが力ない声で、そう告げた。俯きがちなのは、事故のショックからだろうか。いずれにせよ、繭花は今動ける状態ではないのか。最悪の事態になってはいないということを確認できただけ、よかったのかもしれない。小さく息を吐いて、わかった、とだけ伝えた。
俺が早く怪我を治して、事故に遭わせたことを謝る。そして、また今度違う場所へ繭花と出かける。また一緒に、写真を撮りに行く。こんな閉め切った病室は、俺や繭花には似合わない。外へ出て、色々な場所へ行って、色々なものをカメラに収めるのが、俺たちの在るべき姿だ。
早く治そう。
そう決めて、担当医の話を聞くことにした。
俺の怪我は全治半年の大怪我で、体の至る所に複雑骨折が見られているが、命に別状はないということだ。合併症などの心配もなく、上手くいけばあと数日で歩き回れるようにもなるし、数週間で退院ということだ。まだ若いから回復も早いということで、今から楽しみにしていた。窓から見える緑色の景色を眺めては、笑みを漏らして、そこに自分と繭花がいる様を想像した。
俺だけが、何も知らないまま、暢気に。
繭花の病室に行けるようになった日、俺は誰にも告げず、車いすを操って彼女の病室の前へと来ていた。サプライズという軽い気持ちで、病室の扉を開放して言った。
「繭花!」
久しぶりに妹に会えたことの喜びで、目に入らなかった。もう少しでも彼女の体を見ていれば、気付けたのに。
「…ごめん、繭花。俺さ」
繭花と顔を合わせた時、初めて気付いた。
繭花の目元は真っ赤に腫れていて、黒い隈が目立ち、目は充血していた。記憶にいる繭花とは似ても似つかないほどに衰弱しているようで、頬は痩せこけて、患者服から見える腕も細くなって骨がうっすらと浮き出ていた。色も白く、病的に見えた。だから尚更、目元の赤が目立ったのだろうか。視線を落とした時、背筋が震えた。
腿から下が、なかった。
「正哉は…無事だったんだね…良かった」
力なくへらりと笑うその顔が痛々しくて、俺はただ竦んだ。本来なら責められるべきなのに、罵倒されてしまうはずなのに、彼女はこうして笑って見せる。どうして両脚がなくなっているのか。そんなことは決まっている。
俺が、奪ったんだ。
繭花の足を、外へ出るための手段を、木に登るために必要なものを、自転車に乗るためのものを。俺が、彼女から奪ったんだ。
声が出てこない。何かを言おうとしても、頭が回らない。
出てくると思ったら、彼女が木に登って嬉しそうにしている幼い頃や、自転車に初めて乗ることができた時の笑顔。一緒にかけっこをしている後ろ姿だった。ただそれだけで、言いようもないほどの嘔吐感が襲ってきて。思わずその場で空吐きをしてしまった。
「ちょ、正哉大丈夫?」
涙が零れた。
空吐きからの生理的なものだけではなく、ただこうして彼女が自分に何も言ってこないことも、自分だけがそれほどの怪我を負っていないこと。色々な感情が交じり合って、気持ちが悪い。何もないのにも関わらず、何かによって鳩尾が押されているような感じがした。
吐き気がする。
怖い、怖い、繭花が何を考えているのかわからない。それが一番怖くて、どうしようもなかった。
「…正哉、私は別に足がなくなったことなんてどうも思ってないんだよ」
「……は…?んなわけないじゃん…足がなくなって、どうも思わないわけ」
「思ってないの。少しくらいハンデあった方が、なんか燃えるじゃん?私は楽しみだよ、それが。早く怪我治して、また一緒に写真撮りに行こうよ。そんで、私が撮れない場所は、正哉が撮ってね。もちろん、それを拒む権利はないんですよー?」
俺の言葉を遮って、力ない声を精一杯出して、精一杯笑って見せて、俺の手を握った。
「…正哉が言いたいことはわかるよ。わかるけどさ、別に私はそんなことしてほしいわけじゃないんだよ。事故が起きちゃったのは、しょーがない。そう割り切るっきゃないでしょ?ね、マイナスに考えないで」
まっすぐに目を合わせてきてくれる繭花の目を見て、小さく頷いて病室を出た。車いすを走らせて、自室へと急いだ。途中、看護師の静止の声が聞こえたり、病棟を歩いている患者の家族や友人の集団が一気に道を開け、罵声も聞こえたりしたような気がしたが、それすらも、今の俺には霞んでいくように薄く、聞こえるか聞こえないか程度のものだった。
俺は、繭花を殺した。
目を合わせた繭花の目は、死んだも同然だった。あんな痩せこけた姿をして、血色の悪い顔をして、表情は引き攣らせたように作って。あれで大丈夫なわけがなかったのに。あんなの見ているだけで辛い。俺は、どうしてあんな状態の繭花を笑わせたのだろう。
大丈夫なわけがないのに。
『Q.どうしてカメラマンになろうと思ったんですか?A.元々、兄妹でカメラは好きだったんですけど、高校の終わりくらいかな…妹を乗せたまま、交通事故に遭いまして。それで、脚を切断しなければいけなくなってしまって。妹が行けない場所に、僕に行って欲しいと言われたので…色々な場所で色々な写真を撮って。そしてその写真を届けよう。そう思ったんですよ。それを繰り返して、コンテストにも応募するようになったら、そしたら、いつの間にかカメラマンになってました(笑)Q.今、その妹さんとはどのような関係を築いてますか?A.元々、切っても切れない関係だったんですが、今は最悪な状況を乗り越えたということもあって、昔以上に固い絆で結ばれていると信じてます。あ、向こうもそうだと言ってくれればいいんですがね(笑)』
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