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「舞台裏の仲間たち」 25~26

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 この安曇野で、のちに碌山を名乗る荻原守衛は、
黒光より5歳年下で、農家の六男として生まれています。
彫刻家を志す前は画家をめざしており、農作業の合間などを縫っては
穂高の山々や水車小屋などを描いていました。 


 本名は守衛ですが、「碌山(ろくざん)」いう名前を使いはじめたのは
明治40年(1907)の夏ころからと言われています
当時、彼は夏目漱石の小説を愛読しており、『二百十日』の主人公・碌さんの
物事にとらわれない自由な生き方が気に入り、碌山を使い始めました。

 また「山」の字は、故郷の常念岳などの山を
イメージしたとも言われています。
(これとは別に、彼に多大な影響を与えたフランスの彫刻家ロダンを摸した
と言う説もあるようです。)


 初めてこの2人が、行き会ったは
黒光が松本行きの乗合馬車の停車場へ行くために、矢原耕地を回って、
碌山の家の前を通っていた時だといわれています。


 矢原耕地は、今でいう国道147号線の柏矢町の信号機から見た
北東側一帯あたりのことで、安曇野では特に一段と
低くなっている地域を指しています。
上高地から流れてきた梓川は、この東方で高瀬川と合わさり、
犀川となって北に流れ、さらに穂高を流れる万水川と
穂高川にも此処で出あいます。
また穂高の山々からの地下水も、ここから湧水として地上に湧き出しました。
こうして安曇野の川や水のすべてが、この地域に集まります。


 それは5月の陽光がまぶしい昼下がりのことです。
この矢原の田んぼ道を、黒光が紫色のパラソルをくるくると
回しながら歩いていると、守衛少年があまりにも熱心に、
山々を写生していたので、ついさそわれてのぞいたのが、その始まり
になりました。

 22歳になったばかりで、都会の雰囲気と秀麗な風貌の黒光に、
17歳の碌山は、少々恥ずかしかったのだと思います。
ぶっきらぼうな話し方で、安曇富士と呼ばれている有明山のことや、
常念岳の位置、白馬岳の名前の由来などの、
穂高の山々の様子を熱心に説明をします。


 
 安曇野に嫁入りした黒光が、
嫁入り道具と共に持参した一枚の絵画が碌山に大きな影響をもたらしました。
「亀戸風景」というその一幅の風景画に、青年荻原碌山は強く魅入られ、
やがて芸術への開眼につながっています。
またそれは同時に、黒光への憧憬が思慕にも変わっていく
道筋だったとも言われています。
この運命の油絵「亀戸風景」(長尾杢太郎作)の実物大の写真が
碌山美術館本館の入口近くに今も展示をされています。

 20歳になった荻原碌山は、黒光の紹介のもと、
井口喜源治とともに巌本善治を頼って上京し、明治女学校内に
小屋を建て仮寓し、画塾へ通います。
井口と共に内村鑑三の講談会に参加をし、この頃に洗礼も受けています。
23歳で渡米し、ニューヨークの画学校に入学します。
25歳の時にフランスへ渡り、ロダンの「考える人」に深い感銘を受け、
彫刻を志向するようになります。
さらに27歳の時、高村光太郎の来訪を受け、後々までの
深い親交を結ぶようになります。