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南国の雪嶺

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『私は見た。寒風に吹かれ、寒さに震えながら、複葉機のコクピットから確かに見たのだ。赤道直下にも関わらず、高山の頂に積もった雪を。そう、そこはニューギニア島にある……』
 寺田新吉が夢中に本を読んでいる。すると、高井大作がヒョイと本を取り上げた。
「何をするんだ!」
「怒るなよ。お前があまりにも夢中になって本を読んでいるんで、ちょいと俺も興味をそそられたのさ」
 高井が寺田を諌めた。そして、本の表紙に目を落とした。
「赤道の雪山……、ハインリッヒ・ビスバーグ?」
「ドイツの航空探検家だ。第一次世界大戦後、ニューギニアを飛んだんだ。ニューギニアに雪山があることは一六二三年にオランダの探検家ヤン・カルステンツォーンによって目撃されている。ハインリッヒはそれを確かめたかったんだろう。俺にも信じられん。赤道直下のニューギニア島にも氷河があるなんて……」
「ふーん……」
 高井がページをパラパラと捲った。そこにはセピア色ではあったが、確かに雪を抱いた山の写真が掲載されていた。
「俺もニューギニアの雪山をこの目で見てみたい……」
 寺田は頭の後ろで腕を組みながら、宙を眺めた。
「ところでお前はラバウル航空隊に志願したそうだな?」
 本を閉じた高井が寺田に本を返しながら、尋ねた。本を受け取った寺田はモノクロの雪嶺を眺めながら、「いや」と言った。
「俺が志願したのはジャワだ。それにニューギニアの氷河は島の西にある。それを見るにはジャワへ志願するのが最良だったんだが、第二希望のラバウルへ配属が決まった」
「お前、飛行機を操縦したことあるのか?」
「これから覚える。ヒヨコでも何とか飛べるだろう」
「奇しくも俺はニューギニアのラエだ。陸上を歩いてポートモレスビーに進軍するそうだ。兵士の間では『ジャワ天国、ビルマ地獄、死んでも還れないニューギニア』と言われているそうだ」
「お前は陸上をやっているからな。その脚が買われたんだろう」
「まあお互いに生きて帰ってこようぜ」
 それが出兵前に寺田と高田が交わした最後の会話らしい会話だった。
寺田新吉も高井大作も十七歳だった。ともに幼馴染として、そして親友として親交を深めてきた仲だった。
 寺田が夢中になって読んでいた本とはハインリッヒ・ビスバーグというドイツの探検家が書いた「赤道の雪山」という本だった。この本によればニューギニア島西部の高山地帯には赤道直下にも関わらず万年雪を抱いている山が存在するという。寺田はその事実に少なからず衝撃を受けた。赤道直下といえば熱帯雨林のジャングルを想像するからである。だが、「赤道の雪山」には「それは亜寒帯と呼ぶべき寒さ」だという。そして、その最高峰であるカルステンツ・ピラミッドは五〇三〇メートルもあり、それは悠然とそびえ、実に雄々しい姿をしているのだとか。
 寺田はまだ見ぬこの山群に、秘めやかな憧れを抱いていた。ジャワの航空隊に志願したのもニューギニア西部の空を飛べるかもしれないという淡い期待があったからだ。だが、この第二次世界大戦の最中に個人が夢を追うことなど許されるはずもなかった。

「明日はニューギニア島を横断してポートモレスビーに爆撃に行く。我々の任務は爆撃機の援護だ」
 ラバウルの基地で零戦の整備をしていた寺田に隊長の敷島がそう言った。
 ポートモレスビーはニューギニア島の東南部にある町で連合軍の拠点でもあった。
「わかりました。命を賭けて爆撃機を守ります」
「お前はまだ若い。それなりに夢があるだろう。絶対に死ぬんじゃないぞ」
「はあ。自分はニューギニア西部の山岳地帯を飛んで、万年雪や氷河をこの目で見るのが夢なんです」
 寺田は敷島に笑顔でそう返した。寺田の手にはハインリッヒ・ビスバーグの「赤道の雪山」が握られていた。すると、敷島は「そうか」と頷き、実に神妙な顔をした。
「実はな、明日の爆撃は特攻なんだ」
「え?」
「爆薬を積んでポートモレスビーの連合軍の基地に体当たりするんだ」
「そうなんですか……」
「乗組員はお前と同じ歳くらいの志願兵だ。あいつらにも夢があるだろうになぁ……。お前はあいつらに果たせなかった夢を果たす義務がある。わかるか?」
 敷島の瞳には力が篭っていた。そして、敷島は寺田から目を逸らすと、零戦の機体を撫でた。
「もし、お前が明日、爆撃機を無事に特攻させ、生き延びることが出来たら、迷わず西へ向かえ。ただし、これは俺とお前だけの秘密だ。西部ニューギニア戦線にはいくつか我が軍の滑走路が整備されているはずだ。まあ、戦況が有利というわけじゃないがね。お前はそこへ向かって飛ぶんだ。ニューギニア西部にあるその万年雪を見ながらな」
「隊長……」
 敷島は寺田に向き直った。
「だから明日は爆弾ではなく、増槽を積んでいけ。ただし、西部に向かう前にお前が打ち落とされればそこで終わりだ。ポートモレスビーの上空にはスピットファイアがウジャウジャいるはずだ。それにニューギニア島を横断するにはオーエン・スタンレー山脈を越えなければならない。あそこは乱気流が発生し、よく飛行機が堕ちる場所だ。ヒヨコのお前には難関だよ。それでも生き残れたら、お前は夢を果たせ」
「燃料が持ちますかね?」
 寺田が不安そうな表情を隠せずに尋ねた。
「ふはは、日本男児は気力で飛ぶのだ。それでも飛べない時は、どこかへ胴体着陸でもするんだな。その後のことまでは俺は知らんぞ」
 敷島は笑いながら、手を振り、引き揚げていった。寺田はそのまま機体を磨き続ける。機体の整備は整備班の任務であったが、自分が飛ぶ零戦は自分で磨きたかった寺田である。

 その日の晩、寺田は宿舎の集会所へ赴いた。中では酒宴が開かれていた。明日、ポートモレスビーに特攻する爆撃機の搭乗員たちを励ます酒宴である。
 酒宴は盛大に行われていた。食料こそ粗末なものであったが、酒があれば男たちは酔い、陽気に歌などを歌っていた。
「さらば、ラバウルよ。また来る日まで……」
 隊長は呑気に「さらばラバウル」を歌っていたが、寺田には違和感が心の中に残った。明日、特攻する搭乗員たちには「また来る日」がないのだ。
 寺田は搭乗員たちを見た。隊長の歌に手拍子を叩く者もあれば、家族の写真を眺めている者もいる。
「あなたが機長ですか?」
寺田は陽気に手拍子を叩く特攻隊員に話しかけた。手拍子の男は「ああ」と頷いた。
「明日は俺と敷島隊長で特攻を援護する。精一杯やるから、安心してくれ」
「何が『安心してくれ』だ。敷島隊長は歴戦の勇者だが、お前はまだヒヨコじゃないか」
 男は手拍子を止めて、寺田を睨んだ。男の歳は二十歳を少し越えたくらいだろうか。
「俺はな、同じく生きて還れないならば、月へ飛びたかった」
 男は沈痛な面持ちをしながら、茶碗の酒を飲み乾した。その茶碗に水が一滴垂れた。
「機長……」
「畜生、酒でも飲まなきゃやってられん!」
 寺田は機長に敬礼して、その集会所を離れた。外では空に満天の星が輝いていた。
 寺田は星たちを見上げながら思った。機長の夢は月へ飛ぶことだという。ならば、あの満天の星たちに一歩近づくことではないかと。
「死んで星になるか……。軍神と崇められたとしても、果たして彼らの魂は救われるのだろうか?」
作品名:南国の雪嶺 作家名:栗原 峰幸