指揮をとる男
「見てたでしょ」
男は言った。
男は私の手首を掴んでいた。
「何をですか」
私は咄嗟にそう答えたが、本当は何を見ていたか分かっていた。
「そんなに見たいなら見せてあげるよ」
男はそう言うと、耳栓に手を持っていった。
耳栓をそっとつまみ、静かに擦り始めた。
男は目を閉じ、電波を探し求めている。
私は耳栓から目が離せない。
耳栓がゆっくりとこちらに向かってくる。
右回し、左回し、右、左、右、左、右、左……。
男はコルクを抜くように、慎重に、丁寧に耳栓を引き出していった。
肩に粉チーズのような乾いた耳垢がパラパラと落ちてきたが、男は気にも止めずコルクを抜き続けた。
男は黒い服を着ていたので、粉チーズの存在感は否めなく、耳栓を見ていてもどうしても視界に入ってきた。
しかし男は粉チーズどころではなさそうだった。
男の顔は再び歪み出した。
耳栓は徐々に外界へと姿を現していく。
それはまるで脱皮のようだ。
その時だ。
赤い液体が、ぽたた、ぽたたと、耳から滴り落ちてきた。
正確には耳たぶの裏からだ。
私は粉チーズの次はタバスコか、と思ってしまった。
この男は一体、体に何種類の食べ物を詰め込んでいるのだろう。
粉チーズにタバスコと来たもんだ、きっと次はオリーブあたりが出てくるに違いない。
滴り落ちたタバスコによって粉チーズは溶け、見えなくなった。
そして粉チーズを含んだタバスコも、黒い服に染み込んでいった。
顔は尚も歪みを増している。
耳の裏からはタバスコが滴り続けている。
私はかつて幾度となくタバスコがかけられる風景を目にしてきたが、こんなに流れ続けるタバスコを見たのは初めてだった。
もちろん、それはタバスコではなかった。
それは血だった。
なぜ血が出てくるのだろう?
男は耳栓を引き抜こうとしているだけなのに。
その問いに答えるように、男は不気味な笑みを浮かべた。
そして虫歯一つなさそうな真っ白な骨を見せたまま、その問いに答えてくれた。
その答えは実に簡単なものだった。
男は勢いよく耳栓を引き抜いた。
そして耳は垂直に落下し、私の手の甲に着地した。
私はその時ようやく、耳栓が耳と顔をつなぐ本当の黒子だったのだと知った。
〈完〉