指揮をとる男
「いらっしゃいませ」
男が来店した。
「お一人様ですか」
男は頷いた。
「お煙草はお吸いになられますか」
男は手を顔の前で振り、吸わないと提示した。
前々から思っていたのだが、なぜ煙草に『お』をつけるのだろう。
しかし今はそんなことを考えている場合ではない。
私は今まで何度も繰り返された問いを、頭から追い出した。
「ではご案内致します」
男は頷き、素直に私についてきた。
男は席につき、私は水を運んだ。
「ご注文は」
私は擦り切れるほど口にしてきた問いを投げ掛けた。
しかし男の反応は鈍かった。
耳が聞こえないのだろうか。
しかし入り口でのやり取りではちゃんと反応していた。
私はメニューを広げ、もう一度問うた。
今度は少し大袈裟に、口を大きく広げた。
「ああ、コーヒーを」
なんだ、喋れるじゃないか。
「かしこまりした。少々お待ちくださいませ」
私は席を離れた。
「お待たせ致しました」
私はそれを飲んでしまいたい衝動を抑えながら席まで運び、テーブルに置いた。
男は礼を言う代わりに、小さく手を上げた。
席を離れようとしたとき、男の耳に何かが埋まっているのが見えた。
それは黒かったので耳の穴かと思ったのだが、どうやら違った。
よく見てみると、それは耳栓だった。
小さくて、黒い耳栓。
私はなぜだか、それをかっこいいなと思った。
私が耳の穴だと思ったように、誰も耳栓だとは気づかない。
そこにいるのに、いない。
それはまるで黒子のようだ、と思った。
それは誇り高く、私のすることはこれしかない、しかしそれは惰性ではなく天職なのだ、という面持ちで耳に埋まっていた。
そうか、反応が鈍かったのは耳栓をしていたからか、と私は理解した。
しかし、なぜ耳栓をしているのか気になったが、聞くのも変かと思い、私は席を離れた。
「すみません、おかわりを」
男は要求した。
「かしこまりました」
自分の言いたいことだけ言って、外部の音は耳に入らないとは全くいい機能だ、と思いながら私は黒い液体を注いでいた。
男はまた礼を言う代わりに、小さく手を上げた。
男は何かを紙に書いていた。
見た目や雰囲気などから総合的に判断して、物書きか何かだと思った。
私は勝手なイメージとして、物書きは必然的に煙草吸い、と思っていたが実際はそうではなかった。
男は時折、耳栓に手を持っていった。
どこか空中を見つめ、紙にインクを滑らせ、カップの中の液体を口に運び、耳栓を触る。
この四拍子を一定のリズムで保っていた。
男はまるで店内に閉じ込められたBGMの指揮を取っているようだった。
しかし、その時だった。
「あっ」
私は思わず声を漏らしていた。
それと同時に、奥の席の若者達が何かに対してどっと笑ったので、私の声に気づく者はいなかったと思う。
指揮のバランスが崩れた。
美しいその四拍子が。
指揮者は、四拍子目の姿勢のまま一時停止していた。
指揮者はなかなか動かなかった。
すでに四小節が過ぎ、五小節目に入ろうとしているのに。
私は頭の中で再生ボタンを押してみたが、その信号は彼には届かなかった。
しかし指揮者は一時停止してはいなかった。
そのように見えたが、実は再生中だったのだ。
私は微かに震える、ペンという名の指揮棒を見逃さなかった。
指揮棒が揺れるときは、必然的に指も動くことになる。
私はその瞬間を待った。
一拍子目しか指揮を振れない、その揺れを。
私はまた信号を送った。
「はっ」
私はまたも声を漏らしてしまった。
若者達の席は静かだったが、かといって誰かが私のほうを見るということもなかった。
どうやら今回はすぐに受信したようだ。
耳栓をつまんだ指は、微かにもじもじと動いていた。
それはラジオをチューニングしている動きに似ていた。
指揮者は実に真剣な表情でチューニングをしていた。
きっと電波が入りづらいのだろう。
そしてその面持ちからすると、もしかしたら本当にラジオが聴けるのかもしれない。
だとすると指揮者は一体どんな番組が聴きたいのだろう。
やはりクラシックばかり流れるような番組だろうか。
それとも意外にJ-pop、洋楽、R&B、ブラックミュージック、テクノ、民謡……。
いや、案外競馬かもしれない。
待てよ、落語だってありうるぞ。
いやいや待て、もしかしたら韓国語を勉強中の身で、韓国語講座かもしれない。
指揮者は顔をしかめた。
そして一瞬、指が耳から離れた。
きっと音が大きくなりすぎたのだろう。
「そんなことあり得ないって」
どこのテーブルかは分からないが、そんな声が聞こえてきた。
そうだ、そんなことあり得ないのだ。
第一、男は指揮者ではなく、限りなくライターに近い存在なのだ。
ライターなら周囲の雑音をシャットアウトするために、耳栓をしていてもおかしくはない。
私は何を考えていたのだ。
仕事中あまりに暇だからといって、物思いに耽りすぎるのはよくない。
私はここにいる間はプロなのだ。
「ありがとうございました」
入り口のほうから、今まで何度も耳にしてきた、記号化された声が聞こえてきた。
私は店内を見渡し、客が帰った痕跡を見つけ、そこに走った。
汚れた食器をトレイに乗せ、布巾でテーブルを拭きながら、なんとなしに男のほうを見た。
すると、またあの美しい四拍子を奏でていた。
私は四拍子目まで見届けてから、トレイを持ち、厨房に向かった。
そして食器を水に浸し、厨房を出て、トレイを元の位置に戻した。
厨房を出て目の前が男の席だ。
「すみません、コーヒーのおかわりを」
男は、さっきまでの私の心など知らぬと言わんばかりに(知らなくて当然なのだが)、そう告げた。
「かしこまりました」
私は再び、黒い液体をカップに流し入れた。
男は毎回、礼儀正しく手で礼を告げた。
それは記号化された礼よりも、ずっと温かみがあるように感じられた。
カップの内側が真っ黒になったので、私は必然的に席を離れた。
しかし席がそれを許さなかった。
まるで手の甲に釘を打ち込まれ、テーブルに固定されているみたいに身動きが取れなかった。
私は引力を感じる方向に顔と体を戻した。
男が来店した。
「お一人様ですか」
男は頷いた。
「お煙草はお吸いになられますか」
男は手を顔の前で振り、吸わないと提示した。
前々から思っていたのだが、なぜ煙草に『お』をつけるのだろう。
しかし今はそんなことを考えている場合ではない。
私は今まで何度も繰り返された問いを、頭から追い出した。
「ではご案内致します」
男は頷き、素直に私についてきた。
男は席につき、私は水を運んだ。
「ご注文は」
私は擦り切れるほど口にしてきた問いを投げ掛けた。
しかし男の反応は鈍かった。
耳が聞こえないのだろうか。
しかし入り口でのやり取りではちゃんと反応していた。
私はメニューを広げ、もう一度問うた。
今度は少し大袈裟に、口を大きく広げた。
「ああ、コーヒーを」
なんだ、喋れるじゃないか。
「かしこまりした。少々お待ちくださいませ」
私は席を離れた。
「お待たせ致しました」
私はそれを飲んでしまいたい衝動を抑えながら席まで運び、テーブルに置いた。
男は礼を言う代わりに、小さく手を上げた。
席を離れようとしたとき、男の耳に何かが埋まっているのが見えた。
それは黒かったので耳の穴かと思ったのだが、どうやら違った。
よく見てみると、それは耳栓だった。
小さくて、黒い耳栓。
私はなぜだか、それをかっこいいなと思った。
私が耳の穴だと思ったように、誰も耳栓だとは気づかない。
そこにいるのに、いない。
それはまるで黒子のようだ、と思った。
それは誇り高く、私のすることはこれしかない、しかしそれは惰性ではなく天職なのだ、という面持ちで耳に埋まっていた。
そうか、反応が鈍かったのは耳栓をしていたからか、と私は理解した。
しかし、なぜ耳栓をしているのか気になったが、聞くのも変かと思い、私は席を離れた。
「すみません、おかわりを」
男は要求した。
「かしこまりました」
自分の言いたいことだけ言って、外部の音は耳に入らないとは全くいい機能だ、と思いながら私は黒い液体を注いでいた。
男はまた礼を言う代わりに、小さく手を上げた。
男は何かを紙に書いていた。
見た目や雰囲気などから総合的に判断して、物書きか何かだと思った。
私は勝手なイメージとして、物書きは必然的に煙草吸い、と思っていたが実際はそうではなかった。
男は時折、耳栓に手を持っていった。
どこか空中を見つめ、紙にインクを滑らせ、カップの中の液体を口に運び、耳栓を触る。
この四拍子を一定のリズムで保っていた。
男はまるで店内に閉じ込められたBGMの指揮を取っているようだった。
しかし、その時だった。
「あっ」
私は思わず声を漏らしていた。
それと同時に、奥の席の若者達が何かに対してどっと笑ったので、私の声に気づく者はいなかったと思う。
指揮のバランスが崩れた。
美しいその四拍子が。
指揮者は、四拍子目の姿勢のまま一時停止していた。
指揮者はなかなか動かなかった。
すでに四小節が過ぎ、五小節目に入ろうとしているのに。
私は頭の中で再生ボタンを押してみたが、その信号は彼には届かなかった。
しかし指揮者は一時停止してはいなかった。
そのように見えたが、実は再生中だったのだ。
私は微かに震える、ペンという名の指揮棒を見逃さなかった。
指揮棒が揺れるときは、必然的に指も動くことになる。
私はその瞬間を待った。
一拍子目しか指揮を振れない、その揺れを。
私はまた信号を送った。
「はっ」
私はまたも声を漏らしてしまった。
若者達の席は静かだったが、かといって誰かが私のほうを見るということもなかった。
どうやら今回はすぐに受信したようだ。
耳栓をつまんだ指は、微かにもじもじと動いていた。
それはラジオをチューニングしている動きに似ていた。
指揮者は実に真剣な表情でチューニングをしていた。
きっと電波が入りづらいのだろう。
そしてその面持ちからすると、もしかしたら本当にラジオが聴けるのかもしれない。
だとすると指揮者は一体どんな番組が聴きたいのだろう。
やはりクラシックばかり流れるような番組だろうか。
それとも意外にJ-pop、洋楽、R&B、ブラックミュージック、テクノ、民謡……。
いや、案外競馬かもしれない。
待てよ、落語だってありうるぞ。
いやいや待て、もしかしたら韓国語を勉強中の身で、韓国語講座かもしれない。
指揮者は顔をしかめた。
そして一瞬、指が耳から離れた。
きっと音が大きくなりすぎたのだろう。
「そんなことあり得ないって」
どこのテーブルかは分からないが、そんな声が聞こえてきた。
そうだ、そんなことあり得ないのだ。
第一、男は指揮者ではなく、限りなくライターに近い存在なのだ。
ライターなら周囲の雑音をシャットアウトするために、耳栓をしていてもおかしくはない。
私は何を考えていたのだ。
仕事中あまりに暇だからといって、物思いに耽りすぎるのはよくない。
私はここにいる間はプロなのだ。
「ありがとうございました」
入り口のほうから、今まで何度も耳にしてきた、記号化された声が聞こえてきた。
私は店内を見渡し、客が帰った痕跡を見つけ、そこに走った。
汚れた食器をトレイに乗せ、布巾でテーブルを拭きながら、なんとなしに男のほうを見た。
すると、またあの美しい四拍子を奏でていた。
私は四拍子目まで見届けてから、トレイを持ち、厨房に向かった。
そして食器を水に浸し、厨房を出て、トレイを元の位置に戻した。
厨房を出て目の前が男の席だ。
「すみません、コーヒーのおかわりを」
男は、さっきまでの私の心など知らぬと言わんばかりに(知らなくて当然なのだが)、そう告げた。
「かしこまりました」
私は再び、黒い液体をカップに流し入れた。
男は毎回、礼儀正しく手で礼を告げた。
それは記号化された礼よりも、ずっと温かみがあるように感じられた。
カップの内側が真っ黒になったので、私は必然的に席を離れた。
しかし席がそれを許さなかった。
まるで手の甲に釘を打ち込まれ、テーブルに固定されているみたいに身動きが取れなかった。
私は引力を感じる方向に顔と体を戻した。