ふわりの姫
「私が話に乗らなければ、それで終わることだ。それよりも問題は望月の行く末……」
藤馬は深く息をつく。
「……どう考えても八方ふさがりだ。おまえを出せば望月はあやかしの血かと疑われ、出さねば望月は叛心ありかと疑われる。どうすべきか――」
衣擦れの音がした。
「お心を定めれば、簡単なこと」
廊下に男装の薬師が立っていた。藤馬を見つめる目がひときわ妖しく輝いている。
「綺姫のこと、砥上では斎より他に知る者はおりませぬ。斎さえいなければよろしいのでございます。藤馬さまも、内心ではお気づきのはず」
「下がれ! 薬師は薬師の仕事をしていればいい」
そう言いながらも藤馬の声は、いつもより少しばかりうわずっている。
再び衣擦れの音をさせて、薬師が中に入ってくる。
「気のふさぎは万病のもと。わたくしは薬師ゆえ、お心を静めてさしあげようとしているだけにございます」
美しい薬師の目が兄妹に笑いかける。
「おふたりのご心痛を長引かせるのもお気の毒にございますれば。ご安心下さいませ」
不吉な予感が胸をざわりと騒がせる。綺は息を止めて薬師の次の言葉を待つ。
「実は朝のうちに、斎の部下に侍女への言付けをしておきました」
微笑んだ声で、薬師は言った。
「今宵の満月が天頂に差しかかる頃、斎は何も知らず毒茶を飲んで床につきましょう」
* * *
空にわずかに残った深紫色も夜の闇に溶けた頃、東の山ぎわに満月の孤が昇った。
綺は庭に立って、じっと月の出を見つめていた。
あの後、藤馬は珍しく険しい顔で薬師を下がらせた。
――兄上!
すぐに斎さまへ使いを、と言う綺に、だが藤馬は大きすぎるため息を返しただけだった。
――無理だ、綺。いまから早馬を出しても間に合わん。われらは薬師の事後共犯だ。
藤馬はそう言って綺も下がらせ、それからずっと部屋に籠もっている。
兄がどんな結論を出すのか、綺にはわからない。
重い秘密を抱えてこれからを生きる覚悟を固めているのか、あるいは薬師の企みを見過ごした責任を取って――否、どんな結論もわかりたくない。
満月が見る見る姿を現わす。
いま、何が最善の方法なのかも、綺にはわからない。
それでも。――
(斎さまの命を奪うだなんて)
それだけは違うと思う。あっていいことではないと思う。
母が死んで、綺は知った。ひとたび失われた命は、何があっても戻ってこない。
綺は斎を、あの凍えるような目を考える。
斎の目が二度と開かずに失われてしまっては、きっとあの目に見つめられるよりももっと恐ろしいことになる。
増してゆく月の光が綺を照らす。
(兄上、早まらないで)
綺は月を見上げて祈る。
(父上、兄上を助けて。母上、わたしを助けて!)
とん、と綺は庭を蹴った。
ふわりと屋根まで浮き上がったところで、とん、と方向を変えて屋根を蹴った。
望月城内で一番高い、杉の木の枝。
その枝を次々に蹴って、綺は天辺にたどり着く。
杉の木の高さの分だけ近づいた月を、綺は改めて見上げる。
満月は煌々と夜を照らしている。城内、城下、周囲の山々、それらを曇りなく照らしている。
さすがにここからでも、斎の城はまだ見えない。
それでも、この木から飛べば――途中の山の木を蹴ってさらに飛べば――
いくら「ふわりの姫」とはいえ、そんな高く、遠く、飛んだことはこれまでに一度もない。
心臓がばくばくと鳴って、胸がぱっくり割れそうだった。
口はからからに乾いて、唇がかさついた。
それでも綺は月を見上げた。
「……母上。綺の手をひいて」
綺は思いきり杉の木の枝を蹴った。
月がさらに近づく。
満月の光に薄らいでいた小さな星々が見える。
ひんやりとした夜気が体を包む。
生まれてから一度も出たことのない望月城を、もう出てしまった。
振り返って城を見たかった。
けれどもそうしてしまったら――
きっと怖くて、怖くて、たまらなくなって。
先へと進めなくなってしまう。
だから綺は振り返らない。
ひたすらに前を見る。
高々と夜空へと舞い上がった綺の体は、再びゆっくりと落ちてゆく。
夜の山に一本一本の木々の影の輪郭が見えてくる。
そのうちの一本の木の梢を、綺は蹴る。
体はまた空へと戻る。
綺は前を見る。
山を越える。
満月が照らす夜の先に、墨色に沈んだ城が見えてくる。
夜にそびえる砥上の城が見えてくる。
息が苦しい。
重さを感じない体の中で、心臓だけが早鐘のように打っている。
(でも――)
背後から満月の光が綺を包む。
(母上が助けてくれる!)
斎の城へ。
綺は最後の木を蹴る。
瓦屋根が満月に鈍く光っている。
篝火がちろちろと燃えている。
ことに大きな炎が置かれた庭へ。
綺はゆっくりと降りていく。
抜き身の槍を手にした夜番たちがそこにいる。
「――斎さま!!」
綺は空から叫んだ。
夜番たちの驚いた顔が一斉に空を向いた。
ピーーーーー、と甲高い呼子の笛が夜を破りそうな勢いで鳴り響く。
「くせ者!!」
夜番たちが口々に声を張り上げる。その槍が綺にむかって突き出される。
綺はとっさに庭の木をつかんで、体を止めた。そのままふわりと枝に降りる。
篝火が次々に集められ、四方からわらわらと人が集まってくる。
綺は木の上から必死に叫んだ。
「違う、違うの! 斎さまは!? 話があるの!! わたしはあやしい者じゃないわ!!」
しかし木の下の人びとは聞いていない。
「狐狸か、鬼女か!?」
「いや夜叉かもしれぬ!」
「あやかしに決まっていよう!!」
そんな声が次々に聞こえてくる。
もしも砥上家の侍女になればこうなるに違いないと怖れていたことが、いまそのまま起きている。
綺はいまさらながらに後悔した。
(望月城にいたほうがよかった。――)
けれどもそれでは、斎の命はないものになってしまう。
一体どちらがよかったのか。
頭の中がぐるぐる渦巻いて、不安が胸を突き上げて、綺は泣きそうになった。
「母上……」
綺は満月を見上げた。慰めるような柔らかな光を見ると、もっと泣きたくなってきた。
ふと、木の下の騒ぎが静まった。
「――かまわん、下がれ」
自信に満ちた声には聞き覚えがあった。
綺はあわてて木の下に視線を戻した。
木を取り囲む夜番たちから数歩前に、ひとり斎が立って綺を見上げていた。
「斎さま!」
綺はもう一度満月を見上げる。今度は慰めを求めてではなく、ただその位置を確かめるために。
黄金色に輝く真円は、まだ天頂にではなく東の空にある。
それでもまだ安心できない。綺は木の下の斎に叫ぶ。
「斎さま、今夜のお茶は飲んでいませんよね!?」
冷ややかな切れ長の目を綺に据えたまま、斎はわずかにうなずいた。
綺はほっと息をついた。
「よかった……斎さま、今夜のお茶は飲んではだめです! お願いですから、飲まないで下さい!!」
斎はじっと綺を見ている。
「なぜだ」
低い声が尋ねる。
「だって薬師が!」
とありのままを言いかけて、そこで綺は藤馬の言葉を思い出した。
望月と薬師と、斎はどちらを信じるか。