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ふわりの姫

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 そんなあせった気持ちがいけなかった。思わず床を強く蹴り、体がふわりと浮きかける。
 いけない、と綺がとっさに抱きつくようにつかんだのは。
「――」
 そばの斎の腕だった。
「ああああ、あのっ!! こここれは違うんです、そうじゃないんです!!」
 瞬時に自分を見据えた凍てつくような目に、綺は手を離すことすら思いつけなかった。
「違うんです違うんです違うんですっ!!」
「か、重ね重ねご無礼を!」
 藤馬が綺の手を斎の腕からふりほどいた。
「下がれ、綺!!」
「ごめんなさい兄上、ごめんなさい!」
「いいから下がれ!」
「ふぁいっ!!」
 頭にかああっと血がのぼって、視界がくらくらする。
 走って逃げ出したい気持ちを必死にこらえて、綺は今度こそ浮き上がらないように足で廊下を踏みしめる。そうしてやっと、自分の寝間へと逃げ込んだ。
(どうしよう、どうしよう、どうしようーーーー!!)
 綺はそのまま頭から布団をかぶった。
 主君嫡男の腕をいきなりつかむという、家臣の娘にあるまじき無礼をはたらいてしまった。
 どう考えても、斎が望月家と綺に持った印象は、最悪よりもさらに悪くなったに違いなかった。

     * * *

 ――まあ、綺はまた転んでしまったの?
 綺が物心ついた頃、母はもう病で、寝間で一日中横になっていた。
 それでも綺がこしらえた額や鼻や手や膝のすり傷を見ると、軽く咳き込みながらも起き上がって、綺を膝に乗せて薬を塗ってくれた。
 ――ねえ綺、藤馬を見習ってごらんなさい。ああしてすっ、すっ、すっと普通に足を出せば、そうそう転ぶものではないわよ。
 綺にしても、兄のように普通に歩きたいと思っている。けれども、普通にと思えば思うほど体はますますぎこちなくなって、同じ側の手と足を一度に出したりして藤馬に笑われてしまう。
 綺はぷうっとふくれた。それから悲しくなって鼻をすすり上げた。
 ――だってあやは、あにうえみたいにふつうにできないんだもん。ころんじゃうんだもん。
 そうねえ、と母は微笑んだ。
 ――それならわたしが、いつも綺を見ていてあげるわ。綺が転びそうになったら、手をひいてあげる。
 まだ幼かった綺は無邪気に喜んだ。
 ――わあ! ははうえがげんきになったら、あやはおててつなぐの!
 藤馬が小姓として砥上の本城へ行ったその年のある夜、母は眠ったまま静かに息を引き取った。
 綺はとまどった。何日も何か月もかけてようやく、兄が帰ってくることはあっても、母が帰ってくることはないことを理解した。
 母と手をつないで一緒に歩く日は、永遠に来ないことを悟った。
 それから綺は、泣いて泣いて泣き暮らした。
 いつものように泣き疲れて眠ったその日、ふと真夜中に目が覚めた。
 差し込む月の光が綺を誘った。
 そっと深夜の廊下に出た綺を、空いっぱいに輝く満月が出迎えてくれた。その光は母の目のようにやさしかった。薬を塗ってくれる母の手のように心地よかった。
 ――母上は、綺を見てくれている。
 その晩から綺の髪の色が変わりはじめた。
 そして綺は「ふわりの姫」となった。

「母上……わたし、またやってしまったわ……」
 東の空の月に、綺はため息をつきながら話しかけた。
「斎さまの心象をよくしなければならなかったのに、悪くしてしまって。いまごろ絶対、望月は妹を出せるはずという話になっているはずだわ。だけどわたしはこんな体だし……」
 とん、と綺は庭を蹴る。
 体はふわりと宙に舞い上がり、屋根の上に柔らかく着地する。
 望月城のあちこちには篝火が焚かれているが、その小さな光は屋根の上までは届かない。
 誰にも邪魔されない自分だけの場所に座って、綺は改めて月を見上げた。
 そのとき、細く遠く笛の音が聞こえてきた。
 斎が離れに戻ったらしい。再び笛を吹きながら、考えをまとめているのだろう。
「わたしが病弱だなんて、絶対に信じていらっしゃらないわよね……」
 それどころかもしかしたら、望月家に叛意ありと、そこまで考えてしまっているかもしれない。
 綺は深々とため息をついた。
 と、遠い笛の音よりもずっと近く、ひそやかな人の声がした。
 ――何をばかなことを!
 ――さようでございましょうか。ご一考の価値はありましょう。
 絶対に他者に聞かれたくない会話なのだろう。昼でもほとんど人の行かない、裏手の庭から聞こえてくる。綺も屋根の上にいなければ気づかなかったに違いない。
 ――私は砥上家と斎さまに忠誠を誓っている。
 少しはっきり聞こえた次の声に、綺ははっとした。間違いなく藤馬の声だった。
 そろそろと屋根の上を動き、声に近づいてみる。
 万が一誰かが通りかかっても気づかれないようにか、藤馬たちは裏庭の茂みの影にいる。
 しかし屋根の上の綺からは、頭上の月も手伝ってよく見える。
 話しているのはやはり藤馬――そして、見慣れない烏帽子をつけた小柄な影。
 ――されど、斎さまは望月家の二心を疑っております。幸いにもわたくしは薬師、城に戻れば斎さまに一服盛るなどたやすいこと。藤馬さまから謝礼さえいただければ……。
 密談の相手は、斎が連れてきた薬師だった。
(それが斎さまの暗殺を――!?)
 綺は息をすることも忘れてふたりの会話に集中した。
 藤馬の声が薬師に答える。
 ――なんと言われようと、私はそのようなことをするつもりはない。とはいえ殺生も好まない。そなたもこの望月城にいるあいだに、よからぬ考えは捨てるがいい。
 ――よからぬ考えにございましょうか? 藤馬さまほどのお方であれば、わたくしの考えの正しさに気づいていただけるものと思いましたが。よく考えたいということであれば、日を改めましてもう一度。
 ――言うな!
 苦しげな藤馬の叱責の後、綺ですら息が詰まりそうな沈黙が続いた。
 ――かしこまりました。
 ようやく答えた薬師の声は短く、うやうやしく、それと同じくらい白々しかった。
 足早に藤馬が去り、薬師が去った。
 綺は大きく息をついた。体がからっぽになった気がした
 密談に集中していた耳に、再び斎の笛の音が聞こえてきた。
 澄んだ音色は、冴え冴えとした今日の月の光によく合った――恐ろしくなるほどに。

     * * *

 翌朝。多忙な斎は、朝餉を済ませるとすぐに発つということだった。
 綺も見送りに出た。
 一緒に見送る藤馬は、よく眠れなかったのか顔色が悪く見えた。
「斎さま、どうぞくれぐれもお気をつけて」
 不安げな兄の言葉に、綺ははっとした。昨夜聞いてしまった密談が耳の底によみがえった。
「やけに念入りな挨拶だな。たかが領内の移動だぞ。何か裏でもあるのか、藤馬」
「いえまさか、そのようなことなど! されどここからの道は、馬でも一日かかる険路にございますれば、注意しすぎて悪いこともございますまい」
 と頭を下げた藤馬とともに、綺も頭を下げた。
 そうか、と藤馬に答えた斎の次の声は、綺の頭に落ちてきた。
「近々、また会うことになるかもしれんな」
 切れ長の目は冷たく綺を見ていたのだろうが、それ以上の声はなく、斎は去った。
 綺は自分に何ができるかを考えながら、部屋に戻った。
作品名:ふわりの姫 作家名:ひがら