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ふわりの姫

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「兄上。どうぞ元気を出してください。わたし、やります。砥上さまの薬師を完全に騙してみせるわ!」
 ぽかんと綺を見つめた藤馬は、一度まばたいてからやっと口を開いた。
「騙す……?」
「はい。ただの病弱な娘であると、薬師に認めさせますわ。幸いわたしの髪の色も当たり前ではないもの。これも不治の病のせいということにして」
 綺は自分の髪を両手でつかんで藤馬に見せる。
「さらにいまにも死にそうなふりを続けていれば、まさかそんな娘を無理に引っ張っていくこともいたしませんでしょう?」
「……夜よく寝つけるようにと昼は城中を飛び歩いているおまえが、死にそうなふりだと?」
「お任せください。薬師だって半年や一年もこの城にいるわけではないんでしょ」
 自信たっぷりな綺に、藤馬は深々とため息をついて額を押さえた。
「……おまえが騙せるかな。薬師はともかく、ともにいらっしゃるのは斎(いつき)さまだ」
 砥上斎――元服を終えたばかりの十五歳で山中に籠もった山賊を一日で追い払い、十六歳で領内四村の水争いを調停し、十七歳で謀反を企てた家臣を討ち、昨年十八歳で望月城を支配下に置く砥上家の一城を預かった、切れ者と名高い砥上家嫡男の名だった。
 綺はさすがに息を呑む。が、すぐに気を取り直す。
「こ、好都合じゃないですか。あの斎さまが望月の姫にお城仕えは無理とお認めになったのなら、ご宿老も文句はないでしょ。兄上は安心してご覧になっていてくださいまし!」

     * * *

「久しいな、藤馬。まだ山は冷え込むな」
 自信に満ちた斎の声は、夕暮れの気配が迫る空気をすぱりと切り裂くようだった。
 綺は、板戸をへだてた隣室でその声を聞いた。
(ほんとに来た……いよいよだわ)
 藤馬の挨拶がし、斎がそれに答えてふたりの会話が続く。
 綺は立ち上がった。足音を殺して部屋を横切り、近道の裏庭に飛び降りて厨房へ入った。
 竃が並ぶ土間で、水仕女(みずしめ)たちが斎をもてなす夕餉の仕度に追われている。
「お客さまは、まずは喉が渇いているでしょうから。お茶を出して」
「はい綺姫さま、すぐに持って参ります」
「ああそれはいいの、わたしが持っていくから」
 綺はとまどう水仕女を急かし、茶を用意させた。
 盆に乗せて庭沿いの廊下に出る。庭に面した広間の戸は開け放されて、下座にひかえた兄の背が見える。斎はその奥にいるはずだが奥の薄暗がりにまぎれてまだ見えない。
 それでも廊下は明るい。まして綺の髪の色はよく目立つ。綺の姿は、むこうにちらちらと見えているはずだった。
 綺は自分でも苛立たしくなるほどゆっくりと、盆が重い荷物であるかのように歩いた。
 戸口の前で両膝をついて頭を下げ、
「失礼いたします。お茶をお持ちいたしました」
 しとやかに声をかけてから、立ち上がって中へ入る。と、そのとき、
 ――あっ。
 立ちくらみを装い、はかなげに崩れ落ちる――計画だった。
 しかし実際は。
「っきゃあああっっっ!!」
 思いきり着物の裾を踏みつけて、綺はけたたましい悲鳴とともに部屋の中に倒れ込んだ。
 綺の手を離れて盆が飛ぶ。
「!」
 藤馬がすばやく盆を受け止めるが、すでに椀は盆からも飛んでいる。
「!?」
 ふたつの椀が正面の若い男にぶつかる寸前、彼ははっしと両手で受け止めた。が、椀の中身までは止めようがない。椀からあふれた茶が頭から男にかかる。
「斎さま!」
 藤馬の声は悲鳴に近い。
「誰か着替えを! 急げ、すぐに持ってくるのだ!」
「……大事ない、藤馬」
 低い声を聞いて、床に突っ伏した綺はおそるおそる斎の顔を見上げた。
 ぽたぽたと茶の雫が垂れる髪で、その表情はわからない。
 消え入りそうな声で藤馬が言った。
「……大変申し訳ございません、お詫びのしようもございません……妹の綺にございます」
 綺ははっと我に返った。
「ご、ご無礼いたしました!」
 勢いよく頭を下げる寸前、濡れた髪越しにじろりとこちらを向いた斎の目が見えた。
 涼しげを通り越してまるで凍りつくような、切れ長の目だった。

 夕餉が終わったと聞いた後、綺はびくびくしながら藤馬の部屋を訪ねた。
 藤馬は苦々しい顔で文机に頬杖をついていた。
「……あの、兄上。先ほどは、本当に、あの」
「もういい、もう言うな。思い出せば思い出すほど頭が痛くなる。熱茶でなかったのは不幸中の幸いだと、もうそう思いたい……」
 額を押さえた藤馬は、そのまま胸がつぶれてしまいそうなため息をついた。
 綺は返す言葉もなくうなだれた。
 と、どこか遠くから笛の音が流れてきた。
 藤馬がまた息をついた。
「斎さまだな」
 離れに案内した斎が吹いているものらしい。
「斎さまは考え事をなさると笛を吹く癖があってな。山賊の砦への突入前夜、謀反人の討伐前夜、その他折々の節目の前夜、斎さまはああしてことさら冴えた笛を吹かれたものだ」
 砥上家で小姓だった頃、藤馬は斎の笛の音を耳にしたのだろう。
「……今夜は、望月家の今後を考えていらっしゃるのかもしれんな」
 子がいなければ当然出すべき妹を出さず、あまつさえその妹は頭から茶をひっかけた。
 斎からすれば、望月家の印象は最悪そのものに違いない。
 いたたまれなくなった綺は、勢いよく頭を下げた。
「兄上、本当にごめんなさいっ!!」
 途端、下がった頭の勢いで、夜を迎えた綺の体は背中からふわりと浮き上がる。
「落ち着け」
 はずんだ鞠でも押さえるようにして、藤馬は片手で綺を床に押し戻す。
「おまえはいいから、もう動くな。頼む」
「でも!」
「そのようにふわふわと、文字どおり飛び歩かれたほうが困る。斎さまに見られでもしたら、あやかしとは鬼か天狗か望月かと本当に言われかねん」
「うっ……そ、そうですけど、でも」
「――しっ、静かに」
 いつの間にか、東の空にさらに丸みを増した月が昇ってきていたらしい。
 月明かりが照らす廊下を誰かがやってきた。
「藤馬、邪魔するぞ」
 斎の声に、綺はあわてて頭を下げた。いつの間にか笛の音はやんでいた。
「ほう……妹君もいたのか」
 言葉になんともいえない含みがある、ような気がする。
「よい、顔をあげよ」
 綺はおずおずと顔をあげた。
 斎は引き締まった長身で、物語の貴公子とはこんなふうだったろうかという端正な顔立ちだった。だが、引き結んだ口もとには武門の嫡男らしい精悍さがのぞいている。
 何よりも、もうすっかり乾いた髪の下から綺を見下ろす切れ長の目は、修羅か魔王か――まるで真冬の雪嵐のような冷たさだった。
(怒ってるーーーー!!)
 綺は謝罪半分恐怖半分で再びばっと頭を下げかけたが、一瞬浮き上がった自分の体に我に返ってそのまま固まった。せめて言葉だけでも詫びようと言い立てる。
「ささ、先ほどは、ああの、大変にご無礼を!」
 藤馬が珍しく早口気味に口をはさんでくる。
「綺、おまえは席をはずせ、はずすよう」
「はは、はいっ!」
 綺はそろそろと頭を下げ、さらにそろそろと立ち上がった。
 立ち上がった分だけ近づいた斎の目が、より怖い。
 その目から逃れるために、綺はそそくさと部屋から出ようとした。
作品名:ふわりの姫 作家名:ひがら