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ふわりの姫

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 月の光は、やさしい。
 今宵は十三夜。
 そうっと夜の廊下に出てみれば、涼やかに豊かな黄金色が雲の隙間から差している。
 髪を、顔を、体を、月の光がなでていく。
 遠い空からそっと、けれどもほんのりと甘く。
 柔らかにやさしくて。――

 ゴゥゥゥ…………ン…………。
 城下の寺の鐘が遠く響いた。
 東の山ぎわの空も、藍色から暗い茜色にと見る見るうちに色を変えている。
「……寝ぼけるにしても、程があると思うのよ」
 と、綺(あや)は自分に言ってみた。
 望月(もちづき)城内に生えた一番高い杉の木の、さらに一番上の枝の根元。
 さすがにかなり細くなった幹に、綺はしがみついているところだった。
 澄みわたる早朝の空をこんなに間近く見られるのは、きっと鳥くらいのものだろう。
 ――ふわりの姫。
 城内密かにそう呼ばれる、綺以外は。
 昨夜、寝間の外に出て、真円に近づきつつある十三夜の月の光を見た記憶はうっすら残っている。
 問題はその後だ。
 そこからの記憶はもはやないが、自分が何をしたかはよくわかる。
 月に浮かれて、ふわり、ふわりと、杉の木を飛ぶように上がっていったに違いない。
「ついにこの杉も制覇ね……」
 綺はため息をついて髪を後ろへかき上げた。
 黒もしくは濃茶色の髪の皆とは違って、綺はごくごく淡い薄茶色の髪を持っている。
 綺も、生まれてしばらくはまったく普通の娘だった。が、なぜか突然髪の色が薄くなり、心配した父があれこれ手を尽くしてもまるで治らなかった。
 ついには月の光を受けるとほとんど黄金色に見えるようになった七歳の年――
 それは起きた。
 満月の光が降りそそぐ晩だった。
 寝間へと歩いていた綺は、ふっと月の光に包まれた気がした。
 思わず空の月を見上げた途端、綺の足は廊下を離れて宙にふわりと浮かび上がり、そしてゆっくりとまた廊下に戻った。
 その日以来、夜になると、綺の体から重さが消えた。
 とん、と軽く床を蹴るだけで飛ぶように浮かぶ自分の体が面白く、綺はしばらく天井に指を届かせることに熱中した。
 やがて指先がかすり、手のひらがつき、天井を押し返してまた床に戻ることが簡単にできるようになった。
 けれども朝になると、体は元のとおり重く床に張りついてしまう。
 子供の綺はそれが不満だった。
 が、十年近く経つと、さすがに無邪気に遊んでばかりもいられなくなってきた。
 だから夜はさっさと眠って、朝まで起きないように努めているのだが。
 ゴゥゥゥ…………ン…………。
 鐘の音がまた響く。
 はあ、と綺はため息をついた。
 消えていた体の重みがそろそろ戻ってくる時間だった。
 綺はしっかと木の幹を抱えたまま、誰かが起きて庭に出てくる朝を待った。
「――綺姫さま!?」
 杉の木の梢に綺が見つかって、望月城は早朝から大騒ぎになった。

     * * *

「この前は同じ杉の木で長梯子二つだったが、今朝は三つ継ぎ足したのか。困ったことだ」
 兄の藤馬(とうま)がため息をつく。
 いまはきちんと板間に座った綺は、ぷっとふくれた。
「仕方ないじゃないですか。眠っている間の責任なんて取れません」
「そのことを言っているんじゃない。いや、それも問題ではあるんだが、それよりもいまは、そのあと誰の手も借りずにひとりで梯子を下りたことを言っている。危ないぞ」
「杉の木の上で誰かに背負われるなんて芸当をするほうが危ないです。それにあの時間ならまだ完全に戻ってなかったから、もし落ちたとしてもたぶん怪我はしなかったわ」
「そうか。そうだな。……しかし、これはまったく弱ったな」
 はあ、とまた藤馬はため息をついた。苦労性がにじみでて見える顔がより困惑している。
 綺は上目づかいに兄をにらんだ。
「祈祷とか加持とか、うるさくって煙臭い騒ぎはもうごめんですからね!」
「そんなものでどうにかなるなら、とっくの昔にどうにかなっているだろう。亡き父上も母上のご供養とともにさんざん試したことだ。そんなことじゃない」
「じゃあなんですか。兄上の話はまどろっこしいのよ」
「ああ、すまんな。実は、砥上(とがみ)の城から客人がいらっしゃる。今日にも着くだろう」
 砥上家は、二代前からの望月家の主家である。藤馬も幼い頃は砥上家に小姓として仕え、父の跡を継いだ現在は望月家当主として仕えている。
「今日ですって! どうしてこんな直前に言うのよ!?」
「すまん。仕事があれこれ忙しくて、つい後回しになっていた」
 当主となった兄が毎日違う相手と会議し、その合間にはびっしりと文字が記された書類の山に埋もれていることは、綺も知っている。だからそれ以上責める気にもなれない。
「まあしょうがないけど……どうしてそんな話になったんです?」
「この前の月初めの挨拶に出向いたとき、望月の姫はその後どんな様子かと尋ねられた。つまり、そろそろおまえを寄こせということだ」
「でも、妹は変わった髪を羞じている上に体が弱くて、とても外には出せませんと言ってくれたのでしょう?」
「うむ。嘘をつくのは好きではないが、最後だけは真実だからな」
 藤馬は文机に頬杖をつき、三度ため息をついた。
 家臣は、主家に実子を出して結びつきを深める。小姓にする息子がいなければ、娘を侍女にする。
 かつて藤馬が砥上家の小姓となっていたのも、その習わしに従ってのことだった。昨年父が死んだために望月家に戻って家を継いだのだが、嫁取りもまだのため、もちろん子はいない。
 そして、実子がなければ代わりに出すべき藤馬の兄弟は、望月城の奥深くに暮らす「ふわりの姫」綺ひとりだけだった。
「だが、子も兄弟も出してないのは望月くらいだと、人の目も冷たくなってきていてな……」
 またため息とともに藤馬が言う。
「とはいえ、朝になっておまえが砥上の城の屋根の上で見つかっては、今朝の騒ぎどころではないことになるだろう」
「当たり前です! 冗談じゃないわ」
 山深い望月城は質素な板屋根だが、砥上家の持ち城は、本城以外もすべて瓦屋根だという。それだけ立派な城の屋根ならば、きっと今朝の杉よりも高いに違いない。
 そんな屋根の上に朝日を浴びてぽつんと立っている自分を想像して、綺は身震いした。
「だからなんとか理由をつけて、妹には城仕えなどとてもと申し上げていたのだが……こたびはついに、髪の色を揶揄する者があれば罰しよう、体が弱いのならば治すために砥上家の薬師(くすし)をしばらく派遣しよう、ということになってしまった」
「なんですって! じゃあもしその薬師にわたしのことが知られてしまったら――」
「わっと砥上家中に広まるだろうな」
 藤馬はまたまたため息をつく。
「わが望月家は、父の代に初めて砥上家に仕えた新参の家だ。砥上家のはじまりから仕えていらっしゃるご宿老方から見れば、いまですら忠義至らぬ点が多々目につくそうだ。ましてこのような不思議が知られてしまっては、望月は山の鬼か天狗の一族かと、さらに信頼の置けぬ奴という気分になるだろう」
 二十歳になったばかりの藤馬だが、がっくり落とした肩には力がない。
 綺はきっと顔を上げた。
作品名:ふわりの姫 作家名:ひがら