無実の男
私はその場でマスターから連絡先を聞いた。その場で確認を取ったが、常連客は確かに佐倉剛輔と口論になって店を後にしたと証言していた。またその時刻もマスターの言うように十一時頃であったとも証言した。
事件のあった富士見荘からこのアラビクまでは、電車を使っても三十分から四十分は必ず掛かる。地下鉄もなければ、ましてやバスや自動車では一時間は掛かる。被害者の遠野美樹の死亡推定時刻は九時から十一時、その間には絶対に移動できない。
「完璧なアリバイだ。」
私は小さくガッツポーズを決める。
気がつけば路地裏だった。数十メートルおきに設置されているライトだけが足元を照らしてくれる状態だった。それ以外は一面の闇だった。
本当ならその足で捜査一課に戻らなくてはいけなかった。しかしわざと正反対の方向にゆっくりと歩を進めていたのだ。
どうやら雨も降り始めたようだ。くそ、こんなときに限って。小さく舌打ちをする。
どてっ腹の下辺りに違和感の塊が引っかかっていた。理由は簡単だった。
「―――こんなバカなことってあるか!?」
私は先ほどのアラビクのマスターとの話を思い出す。
『店を出たのは何時頃か覚えてませんか。』
『十一時過ぎです。』
奥歯がギリっと音を立てたのが解る。
―――そんな訳あるか!
私は改めてその証言の不可解な事実を顧みた。何が不可解なのか。
決まっている。その後の佐倉剛輔の行動そのものだ。
① 何故、佐倉剛輔はそのことを証言をしなかったのか。
佐倉剛輔には確かなアリバイが存在する。犯行推定時刻の午後九時から十一時、奴は確かに先ほどのバーにいたのだ。では何故、あいつはこの事を喋らなかったのだ。忘れていたのではない、あいつは「言えない」と言っているのだ。これは何故だ。
② 佐倉剛輔は十一時過ぎまではあのバーにいたのは解ったが、ではそれ以降は何処で何をしていたのか。
これが解らない。あのバーから富士見荘まで電車を使えば四十分、駅からアパートまでの移動距離があったとしても遅くとも午前一時までには富士見荘に帰ることが出来たはずである。でもそれはあり得ない。何故か。もし本当に自室に帰ったのならば、その時点で遠野美樹の遺体を発見していたはずなのである。もしそうならばその時点で警察に電話していただろうし、気が動転していたとしても騒ぎの一つでも起こしたはずである。だがしかしだ、鈴原は、近隣住民は犯行時の物音を聞いている、と報告しかしていない。これは逆を返せば佐倉剛輔の騒ぎは何一つ聞いていないと言う事なのだ。それに奴が発見されたのは一昨日の夕方。ほぼ丸一日奴は何をしていたのか。
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佐倉剛輔は何故、証言を拒み続けるのか?
佐倉剛輔はあの夜、何処で何をしていたのか?
遠野美樹は、本当に佐倉剛輔に殺されたのか?
あの夜、一体何が起こったのか?
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「なぁ、良いかげん教えてくれよ…」
誰も教えてくれなかった。
何も教えてくれなかった。
眼の前の闇は、せせら笑う様に寡黙だった。
ゆっくりと眼を瞑る。
何も見えなくなる。次第に何も聞こえなくなる。そして何も感じなくなる。
脳に全身の血流を集中させる。
今回の事件を最初から思い返してみる。
ゆっくりと、ゆっくりと、ゆっくりと……
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―――最初から解っていたくせに
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何処からか、声が聞こえた気がした。
何も聞こえない気もした。
もしかしたら、もう一人の自分からのメッセージだったのかもしれない、そんな気もした。
私は踵を返し、闇の中にその身を溶かして行った。
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第三取調室。
佐倉剛輔はまだそこにいた。鈴原警部補と対峙している彼は、未だ黙秘を続けていた。
「もうさ、いい加減本当の事を言いなさいよ。」
「……」
「事件のあった前日の夜、つまり今月の十九日の夜、お前は何処で何をしていたんだ。」
「…言えません。」
「これだもんな。」
鈴原が椅子の背もたれに体重を預けていると、すぐ後ろの扉が開いた。
黒河准警部だった。
全身びしょ濡れで、しかも良く見ればこの数時間で頬がこけていた。
その様子に鈴原は最初、声をかけることもできなかった。
「えっと…あの、黒河警部、一体どうしたんですか?」
「あぁ、ちょっとな。さっきまで今回の事件について調べててな。ようやく分ったよ。」
「え! そ、それは本当ですか。」
ゆっくりと佐倉剛輔に近づく。
「あぁ。今回の遠野美樹殺害事件、その犯人は、お前じゃない。」
佐倉剛輔は、硬直していた全身の筋肉が一瞬にして弛緩したかのように、立ち上がる。
「そう、お前は恋人を決して殺してなんかいない。」
一番驚いているのは鈴原であった。鳩が豆鉄砲をくらったどころの騒ぎではなかった。
まるで顎が外れた様にあんぐりと開けられた口から、縺れながら質問を切り出す。
「…ええっと、黒河警部、それは本当なんですか。本当に、こいつは犯人じゃないんですか?」
「あぁそうだ。こいつは遠野美樹を殺してはいない。」
その表情は驚きと、そして満面の笑みだ。佐倉は黒河の皺々の両手を力強く握りしめる。
「黒河さん……、本当にありがとうございます。信じてくれて、本当にありがとうございます。」
次の瞬間、黒河は佐倉剛輔の両腕に鉄の輪を喰らいつかせた。
「しかし佐倉剛輔、お前を、喜島日出雄殺害の容疑で逮捕する。」