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花がすみのいろ :1(prologue) -2

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2


 通りに面した平岡の家は、戦前の面影を残す古い商店を改装したもので、引き戸を幾枚も渡した表玄関からも分かる通り、ゆったりとした広い間口を持っていた。
 奥行きもある二階建てで、さぞかし大人数が暮らしているかの風情であったが、実のところ、ここに住まう者は四人きりである。
 地元の商船高校で長らく教鞭を執る、主の平岡鋭太郎と、その妻の志乃、そして、昨年の暮れからこの家の世話になっている、志乃の異母妹、澪子と、その息子の深雪。居候を含めた二家族が、この広い家屋で生活を共にする者たちであった。
 深雪は濡れ鼠で平岡家の前に至り、迫り出した庇の下に飛び込んだ。しかしながら、溜め息を吐いてその場に留まり、玄関へ入る事を躊躇う。
 引き戸の向こうはしんとしていて、磨りガラスから滲んだ明かりが洩れている。上がり端の座敷には、今も母親の澪子がだらしない居住まいでおり、虚ろな瞳を漂わせているのであろう。
 そしてまた、ここに来てふいに思い出された話がある。昨夜の内に、鋭太郎から聞かされていたものであったが、彼の教え子である船乗りの男が、今日から数日の間、この家に厄介になりに来るという。この土地に家を持たぬその男は、年に何度か近くの港に寄港する際、船を降りた休みの間だけ、この家を下宿として使っているのだそうだ。
 深雪はとぼとぼと戸口の片隅へ行き、肌寒さにしゃがみ込んだ。
「深雪ちゃんとおんなじで、うちの息子みたいなものよ。」
 子供のおらぬ志乃の言葉であった。志乃も鋭太郎も、彼について笑顔で語ってくれた事が印象深く、深雪は自分の身の上への苛立ちに、唇を噛む。
 寒さを堪えて、深雪は足元を見やり、庇から伝い落ちる雨の滴りを数えた。不規則に輪を描く水溜りを眺めやるうち、風に飛んだ雨粒が、ぴしゃりと頬を濡らす。ふと、このままどこかへ駆け出したい衝動に駆られ、深雪は降雨の中に身を乗り出す。
「おい。」
 大きな力がぐいと深雪の肩をとらえ、そのまま庇の下に引き戻した。
「この雨ん中を帰るなら、ここで傘を借りていきな。」
 いきなり訪れた未知の衝撃に、深雪は体を強張らせた。
 随分と高いところから掛けられたその声の主は、一体誰なのであろうか。深雪はどうしてもそれを確かめたいと、恐々ながら背後を振り返る。
 深雪よりも遥かに大きな男の体は、深雪を抱き込むようにその後ろにあった。これがあの、鋭太郎の教え子の船乗りであろうか。深雪は教えられた男の名を懸命に思い出そうとするが、志乃の端整な笑い顔が、空しく甦るだけであった。
 この界隈で見られる男衆連中とは比較にならぬ程の長身は、黒の外套を纏い、体を屈めて深雪の顔を覗き込んだ。鳶の羽色のような濡れ髪が、すぐさま深雪の目を引く。その体格から深雪の中で連想された年齢より、男の表情はずっと若いようであった。
 男は、一見鋭い眼差しを和らげ、深雪の頬をその大きな手のひらで拭った。しかし、男の手のひらもその姿と同様に濡れていて、「すまん。ますます濡らしちまったな。」と、深雪の見開かれた瞳を見詰めながら、笑みを作って詫びた。
「手拭い、借りような。」
 男はガラガラと引き戸を開け、先に深雪を中へ入れてくれた。